谷口悟朗が考える、日本アニメが世界で戦うために必要なもの 「手描きとCGを融合させる」
映画『ONE PIECE FILM RED』でシリーズ最大となる203億円の興行収入記録を打ち立てた谷口悟朗。その谷口が次に手がけたオリジナル映画『BLOODY ESCAPE -地獄の逃走劇-』は、未来の「東京」で行く場所を求めてあがく青年や少女と、彼らを追う異形の集団、そしてヤクザによる三つ巴のバトルが描かれたバイオレンスアクションだ。 【写真】「新宿クラスタ」に住む少女・ルナルゥ 新宿にヤクザしかいなかったり、壁で分断された街の外には荒野が広がっていたりする不思議な世界観はどのようにして生まれたのか。主人公の青年キサラギやルナルゥという少女はどこへ行こうとしているのか。谷口監督に聞いた。 ■世界のマーケットで観られることを意識した作劇に ーー本作の設定は、ヤクザだけが住んでいる街があったり、ペン人(ペンギン)だけが暮らしていたりする街があったりと、それぞれの街が壁で分断された「クラスタ」として東京だった地に点在している、というものです。こうした不思議な世界観が生まれた経緯を教えて下さい。 谷口悟朗(以下、谷口):設定としては、かなり未来のお話ですね。ずっと活動してきた人類に種としての寿命が訪れて、活力がなくなって出生率も下がって人口もどんどんと減っていたのを、統治を委ねられていたAIがどうにかしなければと検討して、人類を複数の環境に置いて多様性を増やすことで生き延びていけるようにした。そのための場がクラスタです。そしてクラスタというシャーレの中で純粋培養されている状態が、映画の世界になっています。環境に合わせて人類をいろいろな形に改造していった結果、これは人類なのかといったものも出てきました。 ーーヤクザしかいない「新宿クラスタ」や、映画には登場しませんが、温泉があって人々がタオル一枚で暮らしている「お台場クラスタ」があったりと、それぞれの街に対して浮かぶイメージをカリカチュアライズして描きながら、人間が持っているさまざまな特質を浮かび上がらせようとしているところがありました。吸血鬼として隔離され差別されている人たちが、生き延びるために集団を作っている「人形町クラスタ」にも、そうした寓意のようなものは込められているのですか。 谷口:イメージとしては、伝染が恐れられている病気の患者を隔離している施設なんだけど、容易には伝染しないもの。当事者からすると、どうして病棟に閉じ込められているのかとなって、自分たちにも自由はあるだろうと立ち上がった。そんなイメージですね。そんな彼らが長い歴史にも耐えるだけの集団になるためには、なんらかの神話が必要になる。それで英雄譚を求めるようになりました。 ーーそして、英雄として祭り上げられそうになったキサラギが逃げ出し、「人形町クラスタ」が組織した「不滅騎士団」が追うといったところから物語は進んでいきます。 谷口:あるクラスタでいろいろと問題を起こして別のクラスタに逃げ込んで、そこで何かを手に入れたと思ったらうまくいかなくて、いったいどうしたらいいのかと思っていたら、そこで自立したがっている少女と出会ってしまって、といった話ですね。 ーーキサラギが出会う少女が「新宿クラスタ」に住むルナルゥで、新宿クラスタの外を見たい、他のクラスタではどんな生き方があるのか知りたい、という強い思いをかなえようとして大冒険を繰り広げます。キサラギよりも主人公性が強いです。 谷口:事件性とでも言えそうなこと、出来事と言えば良いですかね、それがルナルゥの側に次々と出てくるので、そちらを軸に観てもらっても間違いではないと思います。ですが、こちらとしてはドラマ的なものについては、キサラギの方にあると考えています。そのように脚本を書いたつもりだしコンテをきったつもりでいます。だから、その両者をつなぐ意味でもクルスというキャラが必要になるわけです。 ーーそれでもルナルゥというキャラクターは強い印象を残します。体制に逆らって生きようとする姿に反骨心を感じました。 谷口:反骨というよりは自立ですね。私はこの作品を日本のアニメーションファンだけに向けて作っている気持ちはありません。世界の実写の映画を観ている人たちが理解できるものにしたいという考えがあって、女性のキャラクターが自立するようなストーリーにしました。狭いマーケットに向けて作る作品では、女性を自立させたがらないところもあります。それはそれで一つの作劇法だから否定はしません。しかし、この作品では、守られる弱い存在とはしなくて、自分で自分の人生をセレクトしなければいけないといった場所に置くべきだろうと思いました。 ーー必死になって生き延びようとして命もかけるバイオレントな女性でした。 谷口:そういうキャラクターが減ってきたのが今の日本のアニメーションの欠点かもしれません。笑いながら剣を振り回すようなキャラクターはいますが、それがバイオレンスということではないですから。現在の日本では、ひとつソフトが売れると、その市場に向けて作っていくという手法があります。ビジネスとしては理解できるが、洗練されすぎた今の技術ではそれは自滅の道でもあります。もっと日本のアニメーションなり映像表現には多様性が求められていると思います。 ーーそこでこの映画では多様性を追い求めた。 谷口:それもありますね。アニメーションだけでなく実写映画も含めて、もっと多様性があると嬉しいと思っています。日本の映画はエンターテインメントにしても、賞狙いの作品にしても、両極端なんですよ。映画はもっと自由なもので、もっといろいろあってほしいと思っていて、この映画でもそうした隙間のようなところを狙ってやりました。 ーー「逃がし屋」についてはどのような存在だと捉えていますか? 谷口:そのまんま。クラスタから逃げ出したい人を別のクラスタに逃がしてあげることを生業にしているチーム。生まれながらにその環境で育ったとしても、それを否定する人は出てくると思います。それはクラスタの倫理や秩序を破壊する危険性を持った存在で、できれば除外したいとなるんですが、将来において新しい多様性を生んでいく存在になる可能性もあるわけで、大きな目で見たら殺すことはできません。そこで「逃がし屋」が存在するようになったということです。 ーー管理する側として表向きには秩序を維持する姿勢を見せながらも、多様性を考えて逃げ道を残しておくために作られたといったところですね。 谷口:例えば、がん細胞が生まれたとします。放置しておくと厄介なことになるのですが、もしかしたらそれはがん細胞ではなく、超細胞かもしれない。だったら別のところに移した方がいい、ということで自然発生したか作られたかした役職が、「逃がし屋」ということですね。 ■「手描きとCG的な部分を融合させていかなくてはいけない」 ーーサンジゲン制作の『ID-0』や白組制作の『revisions』といった作品でフル3DCGのアニメーションを手がけて、今回のポリゴン・ピクチュアズ制作による『BLOODY ESCAPE -地獄の逃走劇-』に至りました。3DCGのアニメーションと2Dのアニメーションに違いといったものはあるのでしょうか? 谷口:『revisions』の頃までは、手描きのアニメーションが衰退していくから、それに代わる表現として3DCGが発展していくのだろうと思っていました。今は、進化の仕方が違うものなのだということが明確に分かりました。代替的なものではないんです。『ONE PIECE FILM RED』を撮っていて、手描きの部分とCG的な部分を融合させていかなくてはいけないところがあったんです。その作業をしながら、手描きのアニメという表現があって3DCGアニメという表現があるということを知りました。 ーーディズニーのように2Dから3DCGへと完全に切り替わるというでもなく、それぞれの表現を活かした作品が作られ続けていくということですね。 谷口:しかもディズニーやピクサーのようなものではなく、日本ならではのリミテッド3DCGアニメと言うべきものを目指す必要があるとも思いました。というのは、日本は海外に比べて資金が足りないのでピクサーやディズニーのようなものを作るのは無理なんです。もちろん技術がないわけではないし、スタッフもいます。ただ、やはりお金が足りない。日本の経済もこれから劇的に良くなるというのでなければ、使えるお金は限られてきます。大量に戦力を用意して一気に作るようなことは無理なので、ピンポイントで戦力を集中させるしかない。そのためにはリミテッド表現しかないんです。 ーーポリゴン・ピクチュアズはその点、古くからCGに取り組んできたスタジオですから、技術的にも表現的にも安心できたのではないですか? 谷口:ポリゴン・ピクチュアズはこれまでも多くの作品を作ってきました。しかし、その中でのいくつかの作品は、“奥ゆかしい”と言うのでしょうか、映像のルックや感情表現がある幅の中に収まっていました。それがポリゴンっぽさを生んでいるのも事実です。それらは同じ文化圏にある人、漫画を読み慣れている人には伝わりますが、自分がこの映画で狙った海外の人には、足りないと思いました。 ーー今回の作品に関してはそういったところをやろうとしたわけですね。 谷口:今までのポリゴンっぽさに何かを足す。世界の人も楽しめるものにしようとした時、日本のお客さんだけがわかる記号だけで作り上げてはダメなんです。日本ならではの記号といったものを取り入れるべきだとは思っていますが、それだけでは足りない。 ーー『BLOODY ESCAPE -地獄の逃走劇-』で海外向けを意識したところはどこですか? 谷口:全体的に意識しました。特に動きに関しては、「アニメーションの基本」を意識してもらいました。基本とは何かというと、シルエットによる表現です。シルエットが変化するからメタモルフォーゼになるわけです。体に重なるようにして手を動かしたところで、シルエットは変わりません。これはメタモルフォーゼとは言いません。シルエットが変わると結果的にボディランゲージになるんです。制作現場ではもっとこうしましょう、こんな動きを入れましょうと言ってブラッシュアップしていきました。 ーーお芝居をつけてあげるということですね。 谷口:彼らが優秀だから注文できたことです。特に今回、ポリゴンの方に頑張ってもらったのは日常芝居です。手描きアニメーションでももしかしたら忘れかけているようなこと、全体の力量が下がって落ちてしまった日常の表現を取り戻そうとしました。それは何かというと“動き”です。人間は言葉を発するときには動いているんです。何かをしながら喋っているのが普通なんです。このことを私は溝口健二さんなどの日本映画から学びました。 ーーたとえば小津安二郎とかではないんですね。 谷口:小津安二郎監督の流れというのは、フィックスをベースとした日本の手書きアニメーションにおけるひとつの基本という気がしますが、そうではないやり方もあるんです。例えるなら山田洋次監督の動きですね。山田監督の『男はつらいよ』シリーズの寅さんなどでも、何かしながら喋っているんです。本来人間の芝居というのはそういうものなんです。それが今は、“振り向いてから喋り出す”という芝居をつける人が増えてしまった。労働効率が下がったりカロリーが上がったりと仕方ない部分ではあるんですが、それを分かってやるのと分かっていなくてやるのとでは、雲泥の差があると思います。 ーー意図的に行っていたことがいつの間にか常態化してしまっているのを改め、原点に立ち返ろうとしている感じですね。谷口監督はこのように各スタジオと仕事をするたびに現場の“底上げ”を行っているのでしょうか? 谷口:そのスタジオの持っているポテンシャルとか力量を、ある程度自分なりに把握した上でプラス2割増ししようという考えで取り組んでいます。中日ドラゴンズの監督だった落合博満さんが、現有戦力の10%底上げで優勝できると考えた。なら、20%。2割までその人たちの力量を底上げしたら、かなりこちらの意図に近づける。そう思ってやっています。 ーー現場にも要求を出して、より良い現場にしていこうということですね。 谷口:それは当然です。そして一緒に仕事をする制作会社のプロデューサーといった人たちが、私の方に付いてくれることも大切です。そうしてくれなければ私だけが浮いてしまいますから。 ーーそうした取り組みが制作スタジオに何かを残すことで、業界全体が底上げされていくという考え方ですね。 谷口:そうですね。外から連れてきた人たちが、そのまま残って新しい仕事に取り組んでいるといった話も聞いています。 ーー谷口監督は『無限のリヴァイアス』でも、『コードギアス 反逆のルルーシュ』でも、『revisions』でも、苦境からの脱出をテーマに選んできたように見えます。これはもはやライフワークのようなものになっているのでしょうか? 谷口:そうしたいと思って作っているわけではないけれど、気がついたらそういう作品がいくつかある、ということですね。良くないですね、私にとっては。雑食でやっていきたいと思っているんですが、何かカラーのようなものが出てしまうのはどうしようもないのかもしれません。出さないようにする、表現を絞るというのもそれはそれで邪念だと思いますし。出身学校の大先輩に三池崇史監督がいるんですが、いろいろなものを撮っていても、何となく三池カラーといったようなものがある。そういったことなのかと解釈しています。 ーー今後の予定は決まっているのですか? 谷口:それはもう決めています。ただ、まずは今回の作品を世界の人たちに観ていただいて、「日本のアニメーションはまだまだ元気です」ということを伝えたいです。
タニグチリウイチ