故郷から着火した「米騒動」 郷誠之助に誘われ東株入り 河合良成(中)
相場は「ゴッド・ノーズ(God knows)」――。小松製作所を世界的メーカーへと押し上げた大正・昭和の実業家の河合良成(かわい・よしなり)は、相場の不可思議さをこう表現したといいます。 【画像】「相場はゴッド・ノーズ」米価と格闘した若き日の怪物経営者 河合良成(上) 越中米の年貢収納地だった現在の富山県に生まれ、米騒動の際には若手官僚として下がらない米価と格闘。郷誠之助に誘われて入った東京株式取引所(東株)では、第1次世界大戦後の歴史的大暴落への対応にもがき、昭和初期の大疑獄事件である帝人事件にも巻き込まれました。戦後は国会議員にもなり、吉田内閣で厚生相を務めた河合は、日中、日ソの経済交流にも尽力しました。 怪物経営者と呼ばれ、相場と闘い、翻弄された河合。市場経済研究所の鍋島高明さんが、米騒動への対処と東株入り後の苦悩を解説します。3回連載「野心の経済人」河合良成編の第2回です。
「米価は人為的には下がらぬもの」悪手重ねた政府
第1次世界大戦が長期化する中、日本中にバブル現象が巻き起こる。中でも米は、金融の超緩慢、作柄不安、シベリア出兵などによる高騰を続ける。時の農商務相・仲小路廉(なかしょうじ・れん)は暴利取締令(暴利を目的とする売買の取締りに関する件)を振りかざして米価引き下げを図る。増田貫一、岡半右衛門といった米穀商兼相場師たちに伝家の宝刀を抜き、拘引したり、戒告を発したりして市場から締め出してしまう。 強権発動で米価が鎮静化するはずもない。河合は仲小路大臣のやり方には賛成できなかったが、入省7年目では異を唱えるのは難しかった。仲小路という男は非常に気性の激しい人だったから、河合が横槍を入れることなどどだい無理だったろう。河合が往時を回想している。 「米価というものは、人為的には下がらぬもので、そういうこと(編注:暴利取締令の発動)をやればやるほど上がる。そのわけは、『政府があれぐらいあわてるのは、よほどお米が世間にないからである。この勢いでいくと、東京に食うお米がなくなり、しまいには臭い外国米など食わされては大変だ』と大衆が思い始めるからである。女房達は心配してお米を買い込んで、箪笥(たんす)(たんす)に仕舞い込んだので、これを当時、『箪笥米』といった。結局、この箪笥米が、米騒動の直接原因となるのである。人心というものは、誠に微妙なもので、役人のやることと逆にいく」(河合良成著『明治の一青年像』) 市場心理は役人の考えている逆に動く、とはさすが鋭い分析である。米価対策は当時政府の最重要課題であり、所管の農商務大臣は代々切れ者が座るのが慣例になっていた。仲小路も俊才ではあったが、肝心の市場心理を読むことができなかった。河合は後年、「米騒動は政治の怠慢だ」とし、次のように述べている。 「寺内内閣は、(編注:第1次大戦後の)米価暴落に対しいろいろの術策を試みたものの、結局はかえって米価を釣り上げる結果に終わった。そこで、本当に米価調節の効果を上げるには、実米の供給を増やすほかない。それには外国米の輸入を敢行する以外に途はないという考えから、『外国米の輸入等に関する件』を大正七年四月閣議決定し、即時公布した」