2019年野球殿堂に元中日の立浪和義氏、元中日、元横浜監督の権藤博氏
野球殿堂入りの発表及び通知式が15日、東京ドームに併設されている野球殿堂博物館で行われ、引退後5年から15年間の選手が対象となるプレーヤー表彰は、元中日の立浪和義氏(49)、監督、コーチ引退後6か月、選手引退後、21年以上が対象となるエキスパート表彰では、元中日で横浜監督時代には日本一にもなった権藤博氏(80)が選ばれた。 また元高野連会長でプロアマの雪解けに尽力した脇村春夫氏(87)が特別表彰での殿堂入りとなった。これで殿堂入り者は、計204人となった。 殿堂入りは野球記者、殿堂入りメンバー&野球記者の投票によって選出され、有効投票数の75%以上が必要で、立浪氏は287票(77.4%)、権藤氏は102票(76.7%)の得票だった。また外国人選手の殿堂入りで注目を集めていた横浜DeNAのアレックス・ラミレス監督(44)は150票(40.4%)、元阪神のランディ・バース氏(64)は84票(63.2%)で票が伸びずに来年以降に持ち越しとなった。
立浪氏はノミネート5年目での殿堂入り
立浪氏は、PL学園から1988年にドラフト1位で中日に入団。故・星野仙一監督の抜擢を受けてルーキーイヤーから開幕スタメンで起用され、新人王を獲得して優勝に貢献、高卒新人として史上初めてゴールデングラブ賞も受賞した。 その後、ミスタードラゴンズと呼ばれるほどの中軸選手として、4度のリーグ優勝に貢献し、2003年7月5日にはセ・リーグで最年少となる33歳10か月で2000本安打をマークした。 走攻守の3拍子が揃ったショートストップで、逆方向への打球が持ち味でもあり、487本の二塁打は、日本最多記録。立浪氏は順調に票を伸ばしてノミネート5年目での選出となった。 この日、通知式に出席した立浪氏は「振り返れば、お祝いスピーチをいただく中村監督をはじめ、子供の頃から野球を始めて、たくさんの素晴らしい指導者に巡りあえたことでここに立たせてもらった。子供の頃から体も大きくなく細かった。プロ野球を見て、あまり大きくない人が活躍しているのを励みにプロを目指し、プロに入ってからは、自分が目標にされるようにプロ生活を全力で頑張った。ドラゴンズという素晴らしい球団で22年やらせてもらった。たくさんのファンの方々の応援に感謝の気持ちでいっぱい。微力ではあるが、野球界のため、そして子供達に野球の楽しさを知ってもらい、好きになってもらうように頑張っていきたい」と挨拶した。 恒例のゲストスピーカーに呼ばれたのはPL学園時代の監督の中村順司氏。 「本来なら、この場には星野仙一さんが立たれていたでしょう」と、他界した立浪氏の恩師の名前を出した上で、ショートとして、外野からの返球がそれると、不満な顔をしていた立浪氏を叱ったことがあるという話や、全国制覇した夏の甲子園の帝京戦で「(打順の)奇数はカーブ、偶数はストレートを狙え」と指示し、立浪氏が見事にカーブを捉えて本塁打にしたことがあるというエピソードを披露した。 「体は小さいが負けん気が強い。誇れる学年だった。それをキャプテンとして信頼を得てリードしたのが立浪」と絶賛。 現在、休部となっているPL学園出身の選手として立浪氏が初の殿堂入りを果たすことになった。 中日は今季から与田剛監督(53)が就任。一気に世代交代が進んだが、立浪氏は、「(今後の)目標は、もう一回ユニホームを着て戦うことが一番」と、監督、コーチとしての現場復帰を熱望している考えを明らかにした。 権藤氏は、鳥栖高から社会人のブリヂストンタイヤを経て1961年に中日に入団。ルーキーイヤーに、いきなり429回3分の1を投げて35勝 防御率1.70の成績を残して、最優秀防御率、最多勝、最多奪三振、新人王の4冠を獲得した。今なお破られないセ・リーグのシーズン最多投球イニングをマーク。「権藤、権藤、雨、権藤」と、呼ばれたほど大車輪の活躍をした。 翌年も30勝したが、酷使がたたり投手としての実働は5年。引退後は、指導者として名を馳せ、中日、近鉄、ダイエーの投手コーチを経て、1998年には横浜監督としてリーグ優勝、日本一を手にした。2017年のWBCでも侍ジャパンのコーチを務めた。 「佐賀の鳥栖から田舎者が一旗上げようとプロへ入ってきた。61年に中日に入って2年間で、30勝とかやりましたが、その後は故障続きで苦しいことばっかりだった。コーチをやることになって、中日、近鉄で優勝ができて、横浜では監督として38年ぶりに優勝した。思えば、選手に助けられ、ファンに助けられ、皆さんに助けられ、運がよかったと思う。選手に恵まれた。 殿堂入りは、次点が続いていたので、そのうち入ると思っていたが、実際に入ってみて、こうして、歴代のメンバー(のレリーフ)を見ると、凄いところに入ったものだなと自分なりにビックリした。今日の姿は一世一代の晴れ姿。自分で自分を謙虚に褒めてあげたい。ここまでやれたのは、なんとか頑張ろうとする熱と、人がやらないことに興味を持って“はっ”とする瞬間を目指して、頑張ってきたこと。これからも“はっ”とする人との出会い、“はっ”とする瞬間を求めて頑張っていきたい」 権藤氏は“らしい表現”でスピーチをまとめた。 権藤氏のゲストスピーカーとしては、中日の背番号「20」の先輩で、1985年に殿堂入りしている杉下茂氏が立ち「星野仙一もつけた背番号20が、中日の看板投手となったが、そうしたのは私でなく権藤君。肩を痛め、最後は内野手になったが、最後の年くらいはピッチャーでありたいと、登録はピッチャーだったことを覚えている」と紹介。 「肩の負担を軽くするために、いろんなところでコーチになって、いち早く分業制を考えて、中継ぎ、抑えを確立した。先見の明があった。自らが肩を酷使した経験があるから、1年でも寿命を長くしようという気が分業制にいったのだろう」と続けた。 立浪氏と権藤氏は、同時期に中日のユニホームを着たことはなかったが、中日OBが同時に2人殿堂入りしたのも不思議な縁。表彰式は後日に改めて行われる。