神社とラブホが周辺に混在する「ウグイスが鳴かない駅」
10線のレールが整然と並ぶ
日暮里-鶯谷(うぐいすだに)間に敷かれた線路が、最初にくぐるのは日暮里駅の稿で紹介した、橋脚(きょうきゃく)の幾何学模様が美しい芋坂跨線橋(いもざかこせんきょう)である。つづいて、やはり人道橋の御隠殿坂(ごいんでんざか)跨線橋が現れる。ここから、JR線を乗り越す京成線の鉄橋までは目と鼻の先だ。そして鶯谷駅到着の直前に、言問(こととい)通りが寛永寺橋で線路上を横切る。 命を育て、生食でもいただける…極上の大阪ブランド「河内鴨」 日暮里駅北口前に横たわる下御隠殿橋(しもごいんでんばし)や御隠殿坂跨線橋。いったい「御隠殿」とは何だろう。 明治に入るまで、いまの東京国立博物館のところには寛永寺の中心建物、輪王寺宮(りんのうじのみや)の本坊が置かれていた。輪王寺宮とは、京都の宮家から選ばれて寛永寺門主の座に就いた者の称号である。門主の宮様は1年の4分の3は本坊で執務するが、残りの期間は根岸の里で休息するならわしとなっており、この休息所を御隠殿といったのである。 京成線の鉄橋の根岸側たもと付近に広大な敷地をもち、老松に囲まれた邸内には京風の家屋や泉水、庭石が配されて、仙境のおもむきをなしていた。ことに、ここから眺める月は美しかったといわれるが、屋敷は幕末の彰義隊(しょうぎたい)の戦いで焼失し、現在それをしのばせるものは何もない。往時の御隠殿へ門主が下った坂が御隠殿坂であった。 跨線橋の下の眺めは壮観である。新幹線は日暮里駅の構内から地下トンネルへもぐって姿を消したものの、山側から京浜東北線と山手線が各2線、尾久(おく)へ至る東北線が複々線で都合4線、さらに常磐線が上下2線で、合計10線ものレールが整然と敷き並べられているのだ。昔日の操車場を想い起こさせる。いっぺんに3本ぐらいの列車がこちらへ向かってくると壮観さの度合いはさらに増すのだけれど、なかなかそういう場面には遭遇しない。 京成線にも目を向ければ、いったん日暮里駅の地平ホームへおりた上り電車がふたたび急坂をのぼって下り電車と同じ高みに達すると、上下2線が並んでカーブを描きながらJR線を乗り越え、すぐに上野の山の下に掘られたトンネルへと吸い込まれていくのである。