大火で大儲け、台風で大損 「100人に1人」の相持つ「横浜の父」 高島嘉右衛門(上)
自慢のトークも大隈重信には“完敗”
このエピソード集には「嘉右衛門、大隈伯に参る」の項がある。嘉右衛門は人と会って話題が易のことになると、話が止まらなくなる。時の名流・伊藤博文や山県有朋でも高島の話に聞き入ってしまう。ところがある時、早稲田に大隈伯を訪ねた。「とうとうとして談じ、こんこんとして尽きず。嘉右衛門をして口を開くのいとまなからしむ。高島、人に語りて曰く。『大隈という人はおそらくお釈迦様の前でも説法する人だろうよ』」 高島の悔しさが十分想像できる。=敬称略
■高島嘉右衛門(1832~1914)の横顔 天保3(1832)年、江戸の三十間堀(さんじっけんぼり、現在の銀座付近)生まれ、14歳で四書五経を読み終える。木材の商いで成功、安政2年の大地震では伝説的な大儲けをやってのける。為替の売買で巨利を占めるが、国禁を破った廉(かど)で4年余り獄中の人となる。出獄後、建築請負で資産を増やし、京浜間の鉄道敷設では埋め立て工事を独占的に受注、横浜の近代化に貢献。現在のみなとみらい線「新高島駅」や横浜市営地下鉄「高島町駅」の駅名はその名残。のちに易学界に転じ、「高島易断」を開祖。呑象と号した。