山口馬木也【1】初主演映画が“第2のカメ止め”に!口コミとSNSで全国拡大公開中
剣で暮らしを立てる父子がさまざまな事件を解決していく姿を描く池波正太郎原作の時代劇ドラマ「剣客商売」シリーズ(フジテレビ系)で秋山大治郎役に抜擢されて注目を集めた山口馬木也さん。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(NHK)、「鬼平犯科帳 本所・桜屋敷」(時代劇専門チャンネル)などに出演。今年8月17日(土)に池袋シネマ・ロサ1館だけで上映された初主演映画「侍タイムスリッパー」(安田淳一監督)がSNSや口コミで話題になり、現在172館で拡大公開中。“第2のカメ止め”と話題沸騰、「本物の侍にしか見えない!」と絶賛されている山口馬木也さんにインタビュー。 【画像】山口馬木也【1】初主演映画が“第2のカメ止め”に!口コミとSNSで全国拡大公開中
■道着を着用して竹刀持参でオーディションへ
岡山県で生まれ育った山口さんは、高校時代に見たレオス・カラックス監督の映画「汚れた血」がきっかけで俳優になりたいと思うようになったという。 「それまでは美術の方を志していて、美術館とかによく足を運んでいたんですよ。そこで『汚れた血』が上映されていて衝撃を受けました。それまでは岡山県の映画館にはハリウッド映画のような大作しか来なくて単館系の映画はほとんど来なかったんですよ。 『汚れた血』に主演されていたドニ・ラヴァンという役者がすごく僕の中ではカッコ良く見えて『役者さんってすごくカッコいいな。役者とかできたらいいのになあ』って思ったんですけど、どうやったら役者になれるのかわからなくて。 岡山に住んでいる高校生ですから全くそういう知識もなく、とりあえず美術の道に進もうと思って京都精華大学芸術学部洋画学科に入りました。結局中退して東京に出てきたんですけど、生活するために東京ではバイトに明け暮れていましたね」 ――どんなアルバイトをされていたのですか 「昼間は工事現場などで肉体労働をして、夜は飲み屋さんで働いて…というのを繰り返していたのですが、からだを壊してしまったので、昼のバイトを辞めたんです。夜のバイトのほうが楽しかったので、そこでバイトをしていた時に、俳優をやってみたいというような話をしたら、『じゃあ、紹介してあげようか』ということになって。 そこから始めたのですが、初めて入った撮影現場で何もできなかったんですよ。それまで演技の勉強も何もやってないわけですから当然そうなるんですけど、小さい頃から時代劇や映画も見ていたし、出ている方はみんなお上手だから、簡単なことのように見えていたんですよね。 僕にもできると思っていたんですけど、実際にやってみるとあまりの難しさに手も足も出なくてびっくりして…本当に。このまま恥をかいて終わるのだけはイヤだなと思って。それで本格的にやってみたいって思ったんです。それがきっかけだったような気がします。でもその時、別に俳優にどうしてもなりたいというわけではなかった気がしますね」 ――京都で撮影の時代劇も多いので、そこで俳優人生が始まったのかと思っていました 「身近だなって感じたのは京都ですかね。京都にいた時も昼夜働いていたのですが、そのお店に京都の撮影所の方たちがよく遊びに来られていたんですよ。だから、意外と近くにそういう世界の人たちがいると感じたのは京都ですけど、直接仕事に繋がったわけでもなく。 ただ、『役者をやりたいんだったら東京に出た方がいいよ。紹介してあげようか』みたいなお話をいただいて東京に来たという感じです」 ――東京に来て実際に仕事になっていくまでの過程はどのような感じだったのですか 「バイトをしながらオーディションを受けていました。最初に受けたオーディションは、日中合作映画だったかな。その時に『何でもいいからやってください』と言われて、舟木一夫さんの『高校三年生』を歌ったんですよね(笑)』 2000年、山口さんは、映画「雨あがる」(小泉堯史監督)に出演。この作品は、武芸の達人だが、人の良さが災いして仕官がかなわない武士・三沢伊兵衛(寺尾聰)とその妻・たよ(宮崎美子)の心温まる絆を描いたもの。山口さんは、殿様・永井和泉守重明(三船史郎)に仕える野田又四郎役を演じた。 「『雨あがる』もオーディションでした。その時は若くて演技もできないですし、ない頭で自分なりに考えたんでしょうね。道着を着て竹刀を持ってオーディション行ったんですよ。 必須条件が殺陣(たて)ができることと馬に乗れることだったんですけど、あたかもその道に精通しているかのようなふりをして、『殺陣も乗馬も大丈夫です』って嘘をついて合格しちゃったんですけど、すぐにバレましたね(笑)。 撮影前に殺陣と乗馬の稽古期間があったんですよ。その時に『君はできないでしょう?』と言われたので『はい』、『馬も乗れないでしょう?』って言われたので『はい』って…。 でも、その時はそういう嘘をついてでもいいから受かりたい、後で覚えればいいやと思っていたんですよね。そこからやりましたけど、やっぱりそんなにすぐにできることじゃないですから大変でした」