監督代行が勝手に帰宅…東京駅で「ほんじゃなぁ」 高卒スター特別扱いで“電撃辞任”
中西太氏に学び出来上がった打撃指導のベース
運命の出会いはコーチ3年目(1983年)シーズン。打撃指導の達人で名伯楽の中西太氏がヤクルトのヘッド兼打撃コーチに就任した。1軍打撃コーチの伊勢氏は「中西さんにバッティングコーチとして、こうあるべきだというのを教わりました。アメリカの(ユマ)キャンプでは四六時中、トイレと寝る時だけが別であとはずーっと一緒だった。バッティングの話、野球の話ばかりでしたね」。この時に学んだことが伊勢氏の技術指導法のベースになったという。 中西ヘッド兼打撃コーチは1984年4月28日から、休養した武上監督の代行を務めたが、チーム状態は上がらず5月22日の大洋戦(神宮)を体調不良で欠場し、5月24日には辞意を表明。土橋正幸投手コーチが代行の代行を務め、その後、監督に就任したが、伊勢氏は「あれはね、中西さんが球団代表と荒木大輔(投手)のことでもめていたからですよ。(欠場する)前の晩、名古屋で長いこと代表と電話で話していましたから」と話す。 「中西さんは代表に『大輔は使えるようになるまで2軍に置いた方がいい。あいつのためや』と言ったんですけど、代表も松園(尚巳)オーナーに大輔のことを言われているので応じなかった。大輔の後ろ盾の人と松園さんがごっつーよかったみたいです。それで中西さんは『言うことを聞いてもらえないなら、代行もやめる』ってなったんですよ」 ヤクルトは中日とのナゴヤ球場での3連戦を終えて5月22日に東京へ移動した。「神宮で試合があるから、チームはバスで移動するんですけど、中西さんはスタコラスタコラ八重洲口の方に行って『ほんじゃなぁ』と言って家に帰ったんです。そこからもう来ませんでした」。中西氏とは師弟関係にあっただけに、伊勢氏もその時の師匠の思いはよくわかっていたのだろう。 この辞任劇によって伊勢氏はヤクルトでは中西氏と2年も一緒にいられなかったが、それまでの日々は貴重だったし、充実していたという。その後も関係はずっと継続され、その出会いがなければ伊勢氏のコーチ人生は違うものになっていたと言っても過言ではない。 「私が(2006年~2007年に)巨人でお世話になった時、(監督の)原(辰徳)君に『伊勢さんって太さんとそういう仲だったの。ちょっと臨時コーチで来てもらうよう頼んでくださいよ』と言われて『1クールだけでも』ってお願いしたら来てくれたんですよねぇ……」。今は亡き中西氏とのことを思い出しながら、伊勢氏はしんみりと話した。
山口真司 / Shinji Yamaguchi