聴衆惹きつける話術…ただ時にそれは舌禍に 気鋭の経済学者が政界へ 政治家・川勝平太とは何者だったのか【静岡発】
4月10日に任期を1年余り残しながら退職届を提出した静岡県の川勝平太 知事。その魅力は何といっても言葉の強さだが、時としてそれは暴言・失言と化した。そして、最後は自らの“言葉”が仇となり県政を去ることになったが、政治家・川勝平太とは何者だったのか振り返る。(以下、敬称略) 【画像】政治家・川勝平太とは何者だったのか?
政権交代につながった“静岡の変”
時は政権交代前夜の2009年7月5日。静岡の地に異色の県知事が誕生した。 男の名は川勝平太。 早稲田大学で学んだ後、イギリスの名門・オックスフォード大学で博士号を取得した気鋭の経済学者だ。 生まれは京都で政治経験は皆無。 立候補を正式に表明したのは告示日のわずか13日前で、この時、川勝は「静岡県が持つ場の力を確信しており、県民と二人三脚で地域の自立に向けてポスト東京の時代を日本の理想をこの地に実現するべく精魂を傾ける」と述べていた。 とはいえ、その9日前の5月27日には「出馬するというようなことは全くない」と話していて、今にして思えば川勝の言葉の裏にある真意を読み解く難しさはこの時からだったのかもしれない。 選挙戦は熾烈を極め、かつて県の副知事も務めた自民党と公明党が推薦する元参議院議員と民主党・国民新党・社民党の推薦を得た川勝がデッドヒートを繰り広げた。 しかし、約2カ月後の衆院選で下野する自公政権は支持率低迷にあえいでいて、さらに後に県議会の自民党会派が自民党県議団と自民改革会議に分裂したことに象徴されるように、一部の議員が擁立段階から川勝の支援に回った結果、有権者数300万人あまり(当時)の静岡にあって、わずか1万5052票差という大接戦を制し、川勝が知事の座を射止めるに至る。
選挙では無類の強さを発揮も…
川勝の魅力は何といってもアジテーションにも似た巧みな話術だ。ひとたび演説をすれば聴衆が高揚感を抱き、熱狂した。 圧巻だったのは川勝が再選を決めた2013年。 静岡県知事選における史上最多得票を更新する108万票余りの票を得て、自民党県連が擁立した候補に70万票以上の差をつけた。 だが、川勝の強みである“言葉”は時に凶器と化す。 2013年には学力調査で小学6年生の国語Aの成績が全国最下位だったことを受け「先生の授業が最低ということ」と捲し立て、平均点以上だった学校の校長名を公表。当時の文部科学相が苦言を呈する異例の事態に発展した。 当初は関係が良好だった静岡市の前市長に対しては本人を前に「キミ」と連呼。その後、「静岡市は政令都市としては失敗事例」と突きつけ、前市長の退任まで続いた亀裂を決定的なものとした。 また、川勝の政策判断が自治体や市民を翻弄したこともある。 JR沼津駅の鉄道高架事業を進めていた沼津市長の栗原裕康は、貨物駅の移転をめぐって一部の地権者が土地の売却を拒否していたため、強制収用の前提となる調査費を予算計上。 ところが、これに川勝が待ったをかけた。 川勝は「解決の糸口を見出したい」と事業の“推進派”と“反対派”の仲裁に名乗り出た挙句、「貨物駅の移転計画自体の必要性に疑問がある」とぶち上げ、さらに自らが知事を務める間は強制収用に着手しない考えを明らかに。これには“反対派”が歓喜し、栗原も調査費の予算を撤回せざるを得なかった。 しかしながら、具体的な解決策を見出すことが出来ぬまま時間だけが経過し、結局は川勝が声をあげてからちょうど10年が経った2021年に強制収用に至る。 これには、“推進派”から「無駄な時間だった」と不満の声が聞かれただけでなく、“反対派”の間にも「信じていたのに」と失望が広がった。 それでも、川勝は選挙に強かった。 3回目の当選を果たした2017年には前回選より票を大きく減らしたとはいえ83万人余りが川勝に票を投じ、2021年の選挙では100万の大台にこそ乗らなかったものの96万票弱を獲得し、根強い人気を見せつける。