日本で初めて“路面電車”が走ったのは上野公園だった? JR上野駅の駅員から聞く「上野の歴史」
TOKYO FMの音声サービス「AuDee(オーディー)」で配信中の番組「東京・春・音楽祭 presents 上野文化塾」。国内最大級の音楽祭、「東京・春・音楽祭」が開催される「上野」にフィーチャーして、街の魅力とその文化的価値を歴史やエピソードと絡めて紹介する番組です。毎回、テーマを設けて専門家とともにトークで深掘りしていきます。 ▶▶【音声を聴く】「東京・春・音楽祭 presents 上野文化塾」 番組のパーソナリティは、映画プロデューサーの矢田部吉彦(やたべ・よしひこ)が担当。後半は、音楽講師の根本卓也さんがテーマにちなんだクラシック音楽の豆知識を教える「音楽小話」のコーナーもお届けしています。今回の配信では、ゲストに東日本旅客鉄道株式会社の森田耕平さんが出演。上野駅の歴史やマスコットキャラクターについて語ってもらいました。
◆上野駅が誕生する経緯を探る
上野の街の魅力を毎回テーマごとにお伝えする「上野文化塾」。今回のテーマは「上野と鉄道」です。まずは、街の発展にもっとも大きく影響を与えたであろう、上野の鉄道の歴史について、JR上野駅に勤務している森田耕平さんからお話を伺います。 矢田部:上野駅は東京にとって象徴的な駅だと思いますし、そもそものスタートはどこから来たのでしょうか? 森田:上野は東京の北の玄関と言われることが多いのですが、たしかに東北地方であるとか常磐線、あとは上信越と北陸に向かう路線がすべて集中しているターミナル駅になります。 そもそも、上野駅ができたのは1883年で、昨年ちょうど開業140周年を迎えました。上野駅を最初に作ったのは日本鉄道という私鉄です。 矢田部:私鉄なんですね! 森田:岩倉使節団を率いて欧米を歴訪した岩倉具視を中心とする華族、氏族の人たち、そして横浜の商人の高島嘉右衛門(たかしま・かえもん)らが力を合わせて政府を動かし、出資を募り会社を設立しました。そして、東北、北陸方面に向かう鉄道を作ろうとしたんですね。 矢田部:なるほど。その後、我らが知っている国鉄になるわけですね。そこまでにどれぐらいの時間がかかったのでしょうか? 森田:いわゆる日本国有鉄道はそれほど古いものではなくて、第二次世界大戦後にできたものです。それまでも国有の鉄道の歴史としては長いんですけども、1883年に日本鉄道の駅として上野から熊谷の区間で開業しました。現在の高崎線の一部になりますね。 当時の計画として、絹の産地である群馬県から貿易港である横浜まで線路をつないで輸出をおこない、北関東の経済を活性化しようとする狙いがありました。線路をどんどん近づけていって、品川とか横浜のあたりまでどうやって線路をつなげようかと考えたときに、当時は上野から新橋まで線路がなかったんです。一方、当時からそのあたりは江戸の中心ですので、土地を買収して線路を作ることができなかったんです。 そのために新宿の山手線を迂回させようとしたんですけども、地形のアップダウンが大きいのですぐにできないことがわかったんですね。そこで、とりあえずは上野を東京のターミナルにすることとなりました。 矢田部:いろいろな検討をしたなかで、結果的に上野が浮上した経緯があったんですね。 森田:上野は江戸の町のだいたい端にあたりまして、そこから赤羽を通って埼玉県方面は比較的平坦で土地の買収も可能でした。 矢田部:なるほど! 森田:さらにですね、今の上野駅があるところはもともと寛永寺の敷地でありました。寛永寺の子院、付属した小さいお寺が固まっているところがあったのですが、元禄11年に大火事(勅額火事)が起こったんですね。 寛永寺境内に火除地(防火のために設けられた空き地)を作るため、当時境内に点在していた子院を全部1ヵ所に集めたんですけども、そこが上野駅のあるところです。その土地は明治政府によって没収されてしまい、お寺は谷中のほうに移転させられています。 矢田部:そして、その跡地を駅にしたんですね。面白い流れですねえ。