【前編】元神戸MF和田倫季、アジア6か国歴戦のキャリア「インスタでのメッセージ」から移籍劇など波乱万丈
今や日本人選手は欧州各国で活躍し、Jリーグの若手はこぞって欧州移籍を目指す時代となった。一方、同じ海外でもアジアを舞台に、そのキャリアを積み重ねる日本人もいる。シンガポール1部・タンジョン・パガー・ユナイテッドFCのMF和田倫季(29)はそのひとりだ。Jリーグ・神戸でキャリアをスタートし、シンガポールで6か国目になる。「今は開幕前ですが、チームを少しでも上の順位にすること、個人的には年間最優秀選手、ベストイレブンを目指して、目に見える結果を残したいなと。活躍して、さらに上のレベルへの移籍を目指したいと思っています」と語る。 神戸の下部組織から13年にトップチームに昇格。父・和田昌裕(現J3金沢ゼネラルマネジャー)はG大阪などで活躍した元Jリーガーで、2歳上の兄・篤紀も京都などでプレー。サッカー一家に生まれ育ち、地元・神戸でプロの舞台に。同期にはDF岩波拓也=現神戸=らがいた。 「今思えば、当時はプロ意識が全然足りなかったと思います。日々を普通にこなしていた、という感じでした。元々は前目のポジションでプレーしていたんですけど、1年目にサイドバックをやることになって。何でおれ、ここやらされているんやろう、って感覚もあって。そのときにサッカー選手として、必要な能力を身につけておくべきだったと思います」 元来は技術を武器とするMFとしてプロ入り。しかしそれだけでは活躍できる世界ではないと、当時は気づくことができなかった。そんな中、プロ3年目途中の15年6月、韓国1部・仁川への期限付き移籍を決断した。 「元々海外に行きたい、という思いはありました。当時はヨーロッパのイメージでした。そのとき、J3のクラブに行くという選択肢もあった中で、仁川のお話をいただいて。(韓国)1部だし、もう行くしかない、と思いましたね」 当然、日本と韓国で環境は大きく違った。仁川はAチーム、Bチームがはっきりと分かれて練習も別々。当初はBチームだった和田は、Aチームのキムドフン監督(神戸でも活躍した元韓国代表FW)には練習すら見てもらえない環境だった。しかしアピールを続けてAチーム昇格を果たし、3試合に出場してプロ初ゴールもマークした。しかし契約延長には至らず。同年限りで神戸との契約も満了し、16年は同じく韓国1部の光州へ移籍した。 「光州は全寮制のような感じで。全選手がサッカー施設に住んで、毎日が(トレーニング)キャンプのような感じでした。朝ご飯をみんなで食べて、散歩して、練習して、みたいな。最初は(韓国人選手と)ふたり部屋だったんですけど、それは頼んで、何とかひとり部屋に変えてもらいました」。Jリーグ時代は想像できなかった環境でプレーし、同年5試合に出場して翌年の契約も勝ち取った。そして17年途中には韓国2部・ソウルイーランドへ。3年間で韓国3クラブでプレーした。 しかし2部のソウルではフィジカル重視のリーグにフィットできず、契約延長には至らず帰国。当時関西2部リーグのレイジェンド滋賀でプレーしたが、19年に今後はオーストラリアへ渡る。独立リーグに当たるコリマル・レンジャーズに加入し、日本食レストランでのアルバイトも行いながら、プレーを続けた。ここで12ゴール11アシストと結果を出すと、同国で2部相当のロックデールへ加入。活躍を見せていたが、新型コロナによるロックダウンの影響に直面した。オーストラリア1部リーグへの移籍を目指していたが、22年途中に新たな可能性が舞い込んできた。 「インドネシア人の代理人から、突然インスタでメッセージがきて。最初は何これ、と思ったんですけど、当時4万人ぐらいフォロワーのいる人で。かなり有名で強い代理人なのかな、と思ってコンタクトを取ってみました。最初にオファーを持ってきてくれたチームの話はなくなってしまったのですが、別のチームのオファーも持ってきてくれて。そしてインドネシアに行くことになりました」 同国1部・TIRAペルシカボに加入。外国人選手は和田以外にブラジル人3人がいたが、住居は同じアパートメント。部屋は別だったが、練習には1台の車で向かった。サッカー熱の高いインドネシア。同年には別スタジアムでサポーターの暴動により、100人以上の死者が出る事件も起こった。「僕のチームはサポーターが優しいチームだったので、そういったことはなかったです。ただ(他チームの)ダービーマッチでは、選手が戦車で移動するようなこともあって。でも環境としては、サッカーに集中できていました。家の近くにイオンがあって、日本のスーパーもあったので」。しかしシーズン中断中、一時帰国していた際に、チームのインスタグラムで自身の退団が発表されていた。 「チームとは契約延長の話はして、サインもしていたんです。日本に戻った時も、監督とは『いつ(インドネシアに)戻ればいい?』と連絡を取っていて。そうしたら、いきなり監督解任が発表されて。クラブから何の連絡もないまま、僕のクビも発表されていました。代理人も知らず、どうなっているの? とは思いましたけど、もうクラブから連絡がなかったので、とりあえずオーナーにありがとうございました、と伝えて。それだけですね。僕の荷物、いまだにインドネシアに置きっ放しなんですよ。1年以上、送ってくれないんですよね」(後編に続く)
報知新聞社