差別を恐れ「被爆者」になることを諦めた“埋もれた被爆者” 嵩下八重子さんがいま語り始めた理由
原爆に遭ったにもかかわらず、差別を恐れて「被爆者」になることを諦めた女性がいる。長年口を閉ざしてきた女性がその記憶を語り始めたのには、今どうしても伝えたいことがあったからだ。 【画像を見る】家族を残し戦死した父・喜久治さん 戦争に行った家族が死んで帰ってきたとしたら…
被爆者であることを隠し続けて半世紀
女性は、爆心地から約800メートルの場所にある山王神社(長崎市)に立っていた。 嵩下八重子さん: ここにお参りに来たのは初めて。ここら辺は思い出したくない。心臓がトクトクする 嵩下八重子さん(84)は生まれてから約半世紀にわたって、原爆に遭ったことを隠し続けていた。 嵩下八重子さん: その頃は絶対言うたらいかんと言われていた、母から。「あんた原爆に遭うとらんとやけん」。私なんか本当どれだけ「原爆遭うとらん、遭うとらん」と言いよったですか
「入市被爆」も手帳交付受けず
1945年8月9日、広島に続いて、2発目の原子爆弾が長崎に投下された。 嵩下さんは5歳で、爆心地から8.3km離れた西彼杵郡矢上村=現在の長崎市東町の自宅のそばで農作業を手伝っていた。 嵩下八重子さん: ここは麦わら家だった。灰が積もっていた。ガラス戸とか障子とか全部倒れていた。恐ろしいというより、何かわからずに戸惑いながら母親たちと一緒に逃げた 原爆投下から2日後の8月11日、嵩下さんは母・サユキさん、祖母・キメさんと一緒に矢上村から爆心地付近に向かった。当時、長崎医大付属病院で看護師をしていた叔母のキヨさんを捜すためだった。病院の近くにある山王神社の辺りで見た光景は、思い出したくない記憶だ。 嵩下八重子さん: みんな倒れて水を求める人が多い。水を飲ませたらだめだったようだが、私は小さかったので「水をくれくれ」言うから飲ませてあげていたら、パーンと叩かれて、それだけしか覚えていません 「親族を捜す」などの理由で、原爆の投下から2週間以内に爆心地から2km以内に入ると「入市被爆」となり、被爆者としての証=被爆者健康手帳が交付される。山王神社は爆心地から約800メートルの場所にあるため、嵩下さんは申請をすれば手帳の交付を受けることができた。 嵩下八重子さん: その頃は「絶対言うたらいかん」と言われていた。手帳のこと話をしていた人から「あんたもらえるとやけん、早く申請しなさい」と言われても、母は「絶対もらわん」と言っていた 一緒に爆心地に入った祖母のキヨさんは手帳を取得し被爆者になったが、母・サユキさんは自分と娘の分を申請しなかった。娘を思っての行動だった。 嵩下八重子さん: それこそお嫁に行けない、一人っ子でしょ。私一人母一人。いろいろ言われたくないって思っているんでしょう 母・サユキさんは被爆者としての援護を何も受けず、2007年にがんで亡くなった。