広野宿での戊辰戦争(3月3日)
双葉郡広野町の広野宿を歩いた。いわきと相馬を結ぶ街道が南北に走り、その両側に家並みが続く。宿場の北の端には大きな石の地蔵が座している。江戸時代の中頃、天[てん]明[めい]の大[だい]飢[き]饉[きん]で命を落とした人々の霊を慰めるために造立されたという。現在では延命、子育て、いぼ取りの地蔵として、多くの信仰を集めている。 広野宿は戊辰戦争の際、激戦の場となった。 奥羽越列藩同盟軍や旧江戸幕府の勢力が三カ所に砲台を築き、守りを固めた広野宿に、慶応四(一八六八)年七月二十三日の夕刻、新政府軍の鳥取藩と広島藩の部隊が攻撃を始めた。戦いは日没後も続き、夜を徹して行われた。 翌朝の八時頃、奥羽越列藩同盟軍などからの攻撃が下火になったタイミングで、新政府軍が広野宿に突入すると、「賊、大[おおい]ニ驚[きょう]愕[がく]、敗走」(鳥取藩『池田輝[てる]知[とも]家記』)した。しかし、奥羽越列藩同盟軍などは広野宿の北、「二ツノ沼ノ険[けん]ニ留[とま]リ」(同前)、なおも抗戦した。だが、新政府軍は「之[これ]ヲ敗リ、砲台ヲ奪」(同前)った。
この時の戦いでは「路傍ノ遺[い]屍[し]、不[すくな]少[からず]。駅前砲台中[なか]ヨリ、駅[えき]内[ない]ニ至[いたる]迄[まで]、流血淋[りん]漓[り]」(同前)、道の脇には多くの遺骸が置き去りにされ、広野宿の手前に築かれた砲台から宿場内は流血に染まったという。 しかし、広野宿をめぐる戦いは、これで終わりにはならなかった。七月二十五日と二十六日にも激しい戦いが行われた。新政府軍に奪い取られた広野宿を奪回しようと、奥羽越列藩同盟軍などが広野宿に攻め寄せた。 七月二十五日の戦いは朝早くに始まったが、奥羽越列藩同盟軍などは振るわず、奪回作戦は失敗に終わった。 翌日の七月二十六日、奥羽越列藩同盟軍などは大挙して広野宿に攻め寄せ、「兵ヲ数[すう]口[くち]ニ分[わか]チ、林[りん]叢[そう]中[ちゅう]、出没、及[はっぽ]発[うに]砲[および]」(同前)、部隊を小分けにし、林のなかに身を隠して、銃撃を加えた。また、「山ヲ越テ、我[わが]背[せ]ヲ襲[おそわ]ントスルノ状アリ」(同前)、山を越え、新政府軍の背後を襲うような動きも見せた。新政府軍の鳥取藩と広島藩は窮地に追い込まれた。しかし、昼頃、「長州、岩国両藩ノ兵、久ノ浜ヨリ揚[よう]陸[りく]、皷[こ]噪[そう]シテ」(同前)、新政府軍の長州藩と岩国藩の部隊が、いわき市の久之浜港に上陸し、その後、太鼓を打ち鳴らしながら進軍し、広野宿での戦いに加わった。これによって、「官軍、兵[へい]威[い]、大[おおい]ニ張リ」(同前)、新政府軍は大いに勢いづき、奥羽越列藩同盟軍などを撃破した。
壊滅状態となった奥羽越列藩同盟軍などは、広野宿の奪回を断念し、途中、楢葉町の木戸宿に火を放ち、北へと遁[のが]れた。 今から百五十六年前、私たちが暮らす身近な場所で行われた戊辰の戦い。なぜ、戦いが起きてしまったのか。戦いを回避する方法はなかったのか。戊辰戦争のことを調べながら、私はそのことをずっと考え続けている。 (夏井芳徳 医療創生大学客員教授)