じつは「太平洋戦争」のさなかにも起きていた「南海トラフ巨大地震」…ほとんど報じられなかったその「被害の全容」
戦時下の南海トラフ巨大地震
太平洋戦争終戦の1945年前後で、1,000人以上の犠牲者を出した地震は、1943年鳥取地震、1944年昭和東南海地震、1945年三河地震、1946年昭和南海地震の4つで、戦中戦後の4大地震とも呼ばれている。鳥取地震と三河地震は内陸の都市直下地震である。 【画像】「南海トラフ巨大地震」で日本が衝撃的な有り様に…そのヤバすぎる被害規模 安政の東海・南海地震から90年後に昭和東南海地震が発生、その2年後には昭和南海地震発生という二つの地震が、最直近の南海トラフ巨大地震である。 1941年12月8日朝、「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」というラジオの臨時ニュースが流れ、帝国海軍がハワイ真珠湾を奇襲し、米国艦船に大打撃を与えたことを知る。太平洋戦争の開戦である。 翌1942年、1月・フィリピンマニラ占領、2月・シンガポール占領、3月・インドネシアジャワ島上陸など初戦は破竹の勢いで華々しい戦果を上げた。しかし、4月18日には航空母艦ホーネットから発進したB-29爆撃機16機が開戦後初めて日本本土に飛来。東京市、川崎市、横須賀市、名古屋市、津市、四日市市、神戸市を爆撃。爆撃機隊の指揮官ジミー・ドーリットル中佐から「ドーリットル空襲」と呼ばれる。この時、日本本土爆撃を終えたB-25のうち15機は、中国大陸に不時着し機体は放棄された。その際搭乗員8名が日本軍の捕虜となっている。そして6月、ミッドウェー海戦で敗北(ハワイ諸島北西にあるミッドウェー島付近の海戦、日本海軍と米国海軍の機動部隊間の戦闘で、日本海軍は参加空母4隻全てが撃沈された。これが日本敗戦の契機といわれる)。にもかかわらず、大本営(戦時の天皇直属最高統帥機関)は、「わが軍の損害は少なし」と発表。新聞も「ミッドウェーの戦火拡大、わが戦果を世界に厳示」などと、あたかも日本軍が勝ったかのように報じた。その後、日本は各戦線で苦戦を強いられていく。翌年の1943年、4月・山本五十六(やまもといそろく)連合艦隊司令長官戦死、5月・アッツ島玉砕、9月・鳥取地震発生(M7.2・死者1,083名)。そして、翌1944年、6月・サイパンで日本軍玉砕、7月・東条内閣総辞職、11月・米軍機B29による東京空襲。こうした敗戦気配の戦況不安と先の見えない重苦しい世情の中、12月に昭和東南海地震が発生する。 1944年12月7日午後1時35分ごろ、熊野灘沖を震源とするM7.9の地震が発生。震源の深さは約40キロメートル。震源域は紀伊半島東部の熊野灘・三重県尾鷲市沖約20キロメートルから静岡県浜名湖沖とみられている。震度7は愛知県西尾市、静岡県菊川市、袋井市などと推定されている。津波は8~10メートル。南海トラフの東南海領域で発生した海溝型地震で、南海トラフ巨大地震の一つである。 地震の翌日12月8日は、日米開戦3周年にあたる「開戦記念日」であり、翌日の新聞各紙一面は昭和天皇の軍服姿の立像が飾った。唯一被災地の新聞「中部日本新聞(現在の中日新聞)」には三面の隅に、「天災に怯まず復旧、震災源は遠州灘」の見出しがあり、続けて「(中央気象台15時50分発表)本日午後1時36分ごろ遠州灘に震源を有する地震が起こって強震を感じて被害が生じたところもある」と書かれていた。しかし、被害の全容や詳細な報道はなく、救助・復旧作業が急速・万全に進んでいるようにのみ報じられている。全国紙の扱いはもっと小さく、中には全く報道していない新聞もあった。つまり、ほとんどの国民には昭和東南海地震によって大きな被害が出ていることは知らされていない。こうした報道管制や災害隠ぺいで、全国からの救援物資や義援金は得られず、被災地の復旧復興を大幅に遅らせることになった。 「敵に弱みを見せるな」と、日本政府が国を挙げてこの大地震をひた隠ししている最中、米紙「ニューヨークタイムズ」は翌日の1面で、「真珠湾攻撃から3周年の昨日、日本で大地震が発生。地球全体が6時間近く震動。観測者が『壊滅的』と表現した猛烈な地震」などと報じ、続報では「大軍需産業が被災地に含まれるが、日本は損害を軽微に見せようとしている」と全て見透かしていた。 地震発生当初は一時「遠州灘地震」と呼ばれていたが、東海地域の軍需工場が壊滅的被害を受けたことを隠蔽するために「東南海地震」と名称変更したという説もある。そして、その後も災害と被害全容は国家機密として公表されることはなく、終戦間際に多くの資料が焼却され「隠された大地震」とも呼ばれている。 この地震による被害は死者・行方不明1,183人、負傷者2,964人、全壊家屋18,008戸、半壊家屋36,554戸、流失家屋3,129戸、浸水家屋3,129戸、焼失家屋3,129戸、火災発生26カ所とされている。この数値は、戦後に見つけ出された限られた資料から推計されたものだ。 震源地から約160キロメートル以上離れた愛知県半田市は震度6以上と推定される強い揺れに見舞われた。半田市内のあちこちで地割れが生じ、阿久比川(あぐいがわ)と半田港に囲まれた低湿地帯では大量の水と砂が噴き出す液状化現象がみられた。そこは主に大正時代に堤防を造って干拓した地域で、山方新田・亀洲新田・康衛新田などと呼ばれ、被害の多くはこうした脆弱地盤地域に集中している。 紡績工場を改築して造られた中島飛行機半田製作所山方工場には、各種部品工場、主翼塗装・鍍金工場、燃料槽防弾加工等の特殊加工工場、艦上攻撃機「天山」の胴体組立工場、艦上偵察機「彩雲」の胴体組立工場、油庫、講堂兼食堂、寄宿舎、郵便局、病院などがあった。その山方工場や葭野工場が昭和東南海地震の激しい揺れに見舞われ、建物の多くが倒壊し多数の犠牲者を出す。 半田市全体の死者数は188人だったが、その81%にあたる153人が中島飛行機で働いていた人たちだった。その中の96人は動員学徒(労働力不足を補うため動員された中学生以上の生徒・学生)、37人が従業員、17人が徴用工(国民徴用令によって強制的に動員された人)、3人が挺身隊(自ら進んで軍需工場などに勤務する人)だったという。 これほど被害が多かったのは、「軍事機密を守るため、工場の出入り口を一カ所にしていたこと」と「紡績工場から軍用機工場へと改築する際、耐震性を考慮せずに工場内の柱を切り取ったこと」が要因とされる。地震に驚き、一カ所の出入り口にみんなが殺到し「団子状態」になっている所へ建物が倒壊、そこで多くの人たちが生き埋めになったといわれる。犠牲者の約三分の二は戦争さえなければ死ななくて済んだ中学生や高校生たちだった。痛ましい限りである。 津波研究家の山下文男氏が書いた『戦時報道管制下 隠された大地震・津波』には、俳優だった田村高廣氏(1928~2006年・田村正和氏の兄)の話が書かれている。田村氏は当時京都三中在学で、学徒動員により中島飛行機で働いていて、九死に一生を得た当時のことを次のように語っている。「ぼくは偶然にも、その時『天山』という組み立て中の飛行機の胴体の中に入って仕事をしていました。そのため助かったのですが、もうあっという間のことでした。あの戦争と地震による惨禍は切り離して考えられない。戦争がなければ『学徒動員』もなかったし、半田まで行って学友13人も死ぬことはなかった」と。 地震で火葬場が損壊したため、ほとんどの遺体は近くの北谷墓地(現柊町市営墓地)で野焼きに付された。丘の麓に溝を掘り藁や木材を並べた上に遺体を置いて点火。しかし、空襲警報が鳴るたびに作業が中断され、火葬終了までに丸2日間かかったという。ちなみに昭和東南海地震で名古屋市内も大きな被害が出したが、死者数は半田市より少なく、121人だった。 昭和東南海地震から6日目(12月13日)から、米軍は名古屋地域に対しB-29の大編隊で大規模空襲を執拗に繰り返す。標的は日本の航空用発動機の40%以上を生産していた三菱重工業・名古屋発動機製作所大幸工場だった。以来、翌年7月26日までにB-29・2,579機が来襲し大量の爆弾を投下した。名古屋空襲による死者は7,858人、負傷者10,378人、被災家屋135,416戸に及んで、名古屋市は壊滅状態になる。 半田空襲と名古屋空襲の1か月後、1945年1月13日午前3時38分に三河地震(M6.6)が追い打ちをかけ、半田市でまた12人が犠牲になる。震源地は三河湾内で、37日前の昭和東南海地震の誘発地震として、当初は「第2地震」と呼ばれた。被害全貌は報道管制で隠蔽され、新聞などではほとんど報道されなかったが、昭和東南海地震の時と同じように、地元の「中部日本新聞」が報じている。「再度の震災も何ぞ、試練に固む特攻魂、敵機頭上、逞しき復旧」「決戦に手を抜くな、比島思えば増産一途(吉野愛知県知事の声明)」といった見出しだった。このころ本土空襲は全国に及んでおり、災害調査などに取り組める状況ではなくなっていた。その30年後、被害調査をまとめた飯田汲事名古屋大学教授によると、三河地震による死者は2,306人、負傷者3,866人、家屋全壊7,221戸とされている。 2度の地震で疲弊した半田市をさらに米軍の凄まじい空襲が襲う。とくに終戦1か月前の7月15日、硫黄島から飛来した小型機P-51十数機が半田市を空襲。同月24日にはB-29大型爆撃機が大規模空襲を仕掛けてきた。78機のB-29が数波に分かれ約2000発の250キロ爆弾を雨のように投下。その直後から無数の小型機が消防隊・救助隊や逃げ惑う市民に機銃掃射を浴びせた。空襲の攻撃主目標となった中島飛行機半田製作所は、本工場へ81発、山方工場へ35発の爆弾を被弾、地震で壊れなかった施設も大半が損壊焼失し、壊滅的打撃を受ける。2度の空襲で半田市民は少なくとも264人が死亡し、多数の重傷者を出すことになる。 当時は戦時下であったため報道管制は厳しく、地震災害だけでなく空襲被害も隠蔽され、全容・詳細はほとんど発表されなかった。終戦(半田空襲)から50年目の1995年7月、戦争の歴史を後世に伝え、犠牲者の慰霊と平和祈念のため、戦災(地震・空襲)犠牲者の名を刻んだ石碑が半田市の雁宿公園(かりやどこうえん)内に建てられた。 さらに続きとなる記事<「太平洋戦争敗戦直後の日本」に追い打ちをかけた「南海トラフ巨大地震」…そのあまりに「甚大すぎる被害」>では、過去の南海トラフ巨大地震について引き続き解説します。
山村 武彦(防災システム研究所 所長・防災・危機管理アドバイザー)