Adoの国立競技場ライブに批判殺到。「顔出しNGでのライブ」にそもそも無理はないのか
Adoの音楽、プレゼンテーションに無理はないのか
そもそも、Adoの音楽、プレゼンテーションに無理はないのか、という問題です。 まず、曲。大ヒットした「唱」をひとつとっても、一曲の中でいくつもの急展開があり、そこに多くの楽器、効果音が使われ、細かなフレーズが入り組んでいる。ヘッドフォンで聴いたとしても、一度で全てを追いきれないほどの情報量がある楽曲です。 これを大きな会場、しかも屋外で再現することを考えると、かなり厳しいと言わざるを得ません。 そこで、やむを得ない音質の乏しさを補うために、ステージの演出やAdo自身のレア感が重要になってくるわけですが、ここで新たな問題が出てきます。顔や姿を出さず、シルエットだけのキャラクターに、どれだけ没入できるかという問題です。 たとえば、テイラー・スウィフトやビヨンセのライブを観に行って、最高級の音質を楽しみたいという人は稀でしょう。(なかにはうるさ型のマニアもいるかもしれませんが)やはり、彼女たちが発するオーラを体感したい、観客にそう感じさせるのがアーティストでありスターなのですね。 Adoはそのオーラを“圧倒的な歌唱力”という触れ込みで漂(ただよ)わせる戦略なのですが、今回のライブでは肝心要(かんじんかなめ)の音響でつまづいてしまいました。唯一にして最大の武器を潰してしまったわけですね。 もちろん、国立競技場自体の音響の悪さ、また騒音対策で望んだ音量を出せなかったなどの不利な条件はあったのかもしれません。 しかし、本当にそうした不運だけで片付けてもいいのか?
ライブでなければならない理由を見出すのが難しい
ニュースなどの映像を見ると、国立競技場でのライブと「紅白歌合戦」(NHK 2023年)での東本願寺の能舞台での演出に大きな違いはありませんでした。ライティングやアニメーションとコントラストを成すAdoの黒い影という構図はそのままで、MVに合わせて人形が歌っているだけのように見えました。 厳しい言い方をすれば、これはスマホ画面を拡大しただけの世界観なのではないか。 歌の迫力が担保されないのなら、これがライブでなければならない理由を見出すのが難しいのではないかと感じます。 クオリティが低いと言いたいのではありません。ただ、Adoの楽曲、ビジュアル展開が、ストリーミングや動画視聴に特化した狭い範囲のクリエイティブなのではないか、ということです。 確かに、素性を明かさず、影が踊り狂い、身体を捻(ね)じ曲げ、床に突っ伏して絶唱する光景には大きなインパクトがありました。けれども、その衝撃は瞬間最大風速的なものであり、物珍しさは次第に薄れていきます。