新入生138人→3か月で半減 水飲み禁止、帰宅は深夜0時…過酷な高校生活「おい、128番!」
「血気盛ん」だった指揮官、“鉄拳制裁”も…
さらに「なんせ監督が厳しかったです」。同校OBで日体大を卒業した後の名将、山上烈監督は「血気盛ん」だったという。「何十年も前の話で、今では考えられないですが“鉄拳制裁”みたいなこともあった時代でしたから。鼻血を流しながら練習をやったこともあって、ここまでしないと甲子園出られないのかな、という感じでした」。 当時の運動部は“水飲み禁止”も当たり前で「それが1番辛かった」。練習の厳しさも相まって、138人いた1年生は「3か月で半分以上が辞めました。卒業するとき、同期は27人です。100人以上辞めました」と驚きの“退部率”も明かした。 京都寄りにあった笘篠氏の自宅から学校のある大阪市天王寺区まで電車で1時間。学校から大阪・河内長野市の野球部グラウンドまで1時間かかった。練習が終わるのが午後10時近く。そこから帰ると深夜0時頃。「食事して、風呂入って、クタクタになって午前2時頃に寝て。すぐ朝6時に起きて学校に行っての3年間。体力的にもかなり大変でした」。 仲間が大量に離脱していくなかでも、過酷な環境で野球部員を続けられたのは「辞めることよりも、甲子園に出たいという思いが勝っていましたから。なんとか頑張ってレギュラーをとって、甲子園に出たいという気持ちでした」。 思いが実り、1981年の春の選抜大会に出場。準決勝まで進み、笘篠氏は2回戦の東山高(京都)戦で本塁打を放つなど活躍。2年生ながらプロ注目の存在となり、実力と信念で後の野球人生の道筋を自ら切り開いた。 ちなみに「128番」だった男は1年時の夏の大会後、3年生引退をもって名前を書くことが許されたという。「漢字でしっかりと書いたのを覚えています」。笘篠氏は笑った。
湯浅大 / Dai Yuasa