S・S・ラージャマウリの“秘密”に迫る ドキュメンタリー『モダン・マスターズ』の真の価値
S・S・ラージャマウリ監督自身が現場で“演技”を披露する姿も
黒澤明監督や小津安二郎監督などの世界的巨匠監督もまた、後に現場スタッフが常軌を逸したこだわりを言及しているように、やはり圧倒的に優れたクリエイターは、どこかに“過剰”といえる部分があるものだ。ラージャマウリ監督に大きな才能や優れたセンスがあることは疑いようがないが、それだけでなく、実際に映像自体に向き合い丹念に力を注ぐことが、彼を巨匠という存在にまで至らしめたという事実には、感動をおぼえる。「ナートゥ・ナートゥ」のブームもまた、そんな下支えあってこその現象だったのである。これは映画に限らず、多くのクリエイターが参考にするべき部分だろう。 また、監督自身が現場において、俳優やスタッフの前で演技を披露する姿も印象的だ。これは、監督自身に確固たるビジョンが存在するからこそできる姿勢だろう。俳優の自主的なアプローチを否定するわけではないだろうが、それよりも監督のイメージに演技や映像の性質を合わせていくこと、偶然や奇跡に頼らないことが、ラージャマウリ監督の作品づくりの基本となっているのだ。 そんな絶対的な「監督」だからこそ、自己主張も強い。監督作を自分の映画だと認めてもらいたいがため、自分のハンコを監督作に押しつけるという「押印」の演出が生まれたということも語られる。 脚本家の父親や従兄弟、作曲家の従兄弟などとの共同作業をおこなうなど、ラージャマウリ監督が映画分野などの芸術に秀でた一族の一人だということも、本作では明らかになる。とくに注目したいのは、父親との物語づくりについてだ。例えば、ミュージカル、ダンスシーンについて、父親のV・ヴィジャエンドーラ・プラサードは、息子にこう主張され、学んだと語っている。「森の周りを走りながら歌うのは終わり。そんなの興味ない。歌を入れるなら物語を進めなきゃ」と。 確かに、『バーフバリ』シリーズなどを観ると、ミュージカルやダンス、モンタージュのシーンは単に抒情的な効果にとどまるものではなく、物語の流れと融合しているものが多いことに気づく。伝統的な映画づくりに学びつつも、批評的な目線を絶えず失わずに、表現を革新していく……そんな挑戦的姿勢があるからこそ、ラージャマウリ監督の作品は、インド国内での人気にとどまらず、世界で受け入れられるものになったのだ。宗教的な輪廻の概念とハエの復讐劇という、意表をついた組み合わせによる物語が楽しめる『マッキー』は、まさに象徴的な一作だといえるだろう。 このように本作『モダン・マスターズ:S・S・ラージャマウリ』は、ラージャマウリ監督の裏話にとどまるだけではなく、ファンや観客にとって作品を評価する点がより明確なものとなる、意義のあるものになったといえよう。また、彼同様に、世界で通用する偉大な映画監督、そしてさまざまな種類のクリエイターを目指す者にとっても、多くの示唆に富んだ内容となっていると考えられるのだ。
小野寺系(k.onodera)