「これはまずい」学生の朝帰り、だらけた雰囲気…それでも青学大・原晋監督が見逃さなかった“ある変化”「今の生活を変えたい」選手が宣言した日
「このままでは箱根に出られない…」学生に変化が…
ところで、箱根駅伝というとお正月の2日・3日という印象がありますが、それは「本選」で、前の年の秋に「予選会」があります。その年の本選でシード権を得られなかった大学と、そもそも本選に出場できなかった大学は、その予選会を突破しないと本選には出場できません。当時の青山学院大学陸上競技部にとって、ターゲットはその予選会でした。 予選会は10月に行われます。新年度が始まった半年後には、4年生が箱根路を走れるかどうかが決まってしまうのです。最初の年、青山学院大学は予選会を16位で終えました。もちろん本選には出場できません。4年生は、この時点で引退となります。 すると、学生はその瞬間に最上級生となった3年生を中心に「このままでは自分たちも箱根駅伝に出られない」とだんだん考えるようになってきました。 それまでも彼らは「箱根に出たいか」と聞かれれば「出たい」と答えていました。ただ、そのためにはどこまで真剣になるべきなのか、果たして自分たちの自由を犠牲にする勇気があるのか、彼ら自身が量りかねていました。生活がいまひとつぴりっとしなかったのも、本気で目指すかどうかを決めかねていたからでしょう。 このままでは絶対に無理だ。そう気がついた子たちは、自発的に、今の生活を変えたいと言い出しました。考えてみれば彼らだって、自由な一人暮らしを手放すという犠牲を払って寮生活を選んでいます。なぜそうしたのかと言えば、やはり箱根駅伝に出たいから。歓声を受け、青山学院大学のユニフォームにフレッシュグリーンのタスキをかけて、大勢の前を走りたいからです。
監督は学生の変化を見逃しませんでした
だからこそ、彼らの心に火がついたのだと思います。さらに厳しいルールが必要だという声が自然とわき上がりました。箱根駅伝に出られるならどんな努力でもしたい、それが必要なら厳しいルールも守りたい、と意識が変わったのです。 監督はその変化を見逃しませんでした。 6時に寮の前に集合して朝練へ出発(現在は5時半に市民球場集合と、さらに早くなっています)。夜は10時が門限で、食事は一緒に食べる、部屋での飲酒や茶髪、ギャンブルは禁止といったルールが、監督と学生の合意の下で決まったのは、寮生活が始まって、ほぼ1年がたってからのことでした。 一般の大学生と比べると、かなり厳しいルールです。正直に言えば、音を上げる子もいました。でも、勝つためにはどんなことでもしたい、厳しいルールも守りたいと思った子たちは、歯を食いしばってそれを守りました。自分たちで決めたルールなのだからという思いもあったでしょう。頭ごなしにあれをしなさい、これをしなさいと言わず、彼らに任せてよかったなと思いました。 もし、わたしがしびれを切らして、学生に生活態度のあれこれをガミガミと注意していたら、どうなっていたでしょう。素直に聞かないばかりか、反発する気持ちを抱く学生もいたでしょう。 同じように会社や家庭でも、部下や子どもにいろいろと言いたくなる場面がたくさんあると思います。でも、自分で気づかない限り、人はなかなか変わらないもの。ぐっとこらえて、見守ることが必要かもしれません。そして、気づいたかな、というときには、一気に背中を押してあげることが大切だと思います。《第3回に続く》
(「Number Ex」原美穂 = 文)
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