「不自由な妻を支えるスター」丹波哲郎が妻・貞子に語ったこと
---------- 『日本沈没』『砂の器』『八甲田山』『人間革命』など大作映画に主役級として次々出演し、出演者リストの最後に名前が登場する「留めのスター」と言われた、大俳優・丹波哲郎。 そんな丹波が、「霊界の宣伝マン」を自称し、中年期以降、霊界研究に入れ込み、ついに『大霊界』という映画を制作するほど「死後の世界」に没頭した。なぜそれほど霊界と死後の世界に夢中になったのか。 数々の名作ノンフィクションを発表してきた筆者が、5年以上に及ぶ取材をかけてその秘密に挑む。丹波哲郎が抱えた、誰にも言えない「闇」とはなんだったのか――『丹波哲郎 見事な生涯』より連載形式で一部をご紹介。 前編記事<丹波哲郎、映画からテレビの世界へ――態度がデカすぎてホサれた時代の真実> ---------- 丹波哲郎、映画からテレビの世界へ――態度がデカすぎてホサれた時代の真実
妻が、ルーズベルトもかかった病に
1959年7月16日の朝、貞子の呼ぶ声で、淺沼好三(あさぬまこうぞう)は目覚めた。 世田谷の工務店に勤務していた淺沼は、建築を手がけた関係で近所の丹波家に出入りするうちに、夫妻から気に入られ、一人息子の義隆の子守りまで任されるようになっていた。一家の海水浴やスキー旅行にも決まって誘われた。赤い屋根が目立つ一軒家の2階にある、丹波の書斎に寝泊まりする機会も増え、この日も3畳の書斎の床に布団を敷いて寝ていた。 貞子の声に、なにごとかと夫妻の寝室に行くと、ベッドの上の貞子が、「足が動かないの」と顔をしかめている。どうしても立ち上がれないので、淺沼が寝間着姿の貞子をおぶって1階に降ろした。丹波は前日から留守だった。 ちょうど3日前が義隆の四歳の誕生日で、貞子は兄・大蔵敏彦の自宅での誕生会に招かれた。丹波は仕事で来られなかったが、神奈川の江の島にあった「江の島マリンランド」への日帰り旅行には合流した。 丹波夫妻と義隆、母せんの4人で、水族館やイルカショーを観て帰宅したあと、貞子は熱を出した。ここしばらく頭痛も続いていた。疲れからだろうと気にもとめなかったが、発熱の翌朝、前例のない変調に見舞われてしまったのである。 淺沼は大急ぎでタクシーを呼んだ。救急車にしなかったのは、スターへの階段を駆けのぼりつつある丹波への飛び火を、貞子が危ぶんだためだ。 1階に横たえた貞子を淺沼は再び背負おうとしたが、上半身を起こすのがやっとで、しかたなく戸板に乗せ、タクシーの運転手とふたりがかりで車内に運び入れた。幼い義隆は膝の上に乗せた。 しかし、近所の医院では原因も治療法もわからない。急を聞いて駆けつけた丹波の指示で、文京区の日本医科大学付属病院に転院した。 いったんは快方に向かい退院したものの、すぐに再発した。全身が突っ張ったまま、あおむけに寝たきりで、体の向きを右にも左にも変えられない。腰から下が、ひどく痺れていた。 新宿の国立東京第一病院(現・国立国際医療研究センター病院)に入院し、煩雑な検査の末、ようやく病名がわかった。 「脊髄(せきずい)性小児麻痺」――。一般には「ポリオ」と呼ばれる疾病である。ワクチンがすでに開発され、世界的に患者数は激減していたが、日本では再流行のきざしを見せていた。 「小児麻痺」の病名から、子どもしかかからないと思われがちだが、大人も罹患する。元アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトがそのひとりとされ、チャーチルやスターリンと第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったヤルタ会談の写真が着席したものばかりなのは、下半身が麻痺していたせいだった。 貞子は、親しい歯科医の増田進致(のぶゆき)に打ち明けている。 「熱で倒れて朦朧としちゃって、気がついたら病院のベッドに寝かされていたのよ。それで、あるとき足の先が痒くなったのね。布団から足の先が出ていて、そこを蚊に刺されたらしいの。それでまた蚊が刺しにくるんだけれど、足が動かない。だから、上半身だけ起こして枕を投げつけたのよ。悔しくて悔しくてね。あんなにちっちゃな蚊にまでバカにされて、これからの人生を生きなくちゃいけないのかと思ったら、本当に情けなかった」 丹波は打てるだけの手を打った。入院先の病院で、貞子に最先端の治療を受けさせた。ソ連に「ガランタミン」という特効薬があると聞けば、高価なうえに入手困難なその薬を、義兄の大蔵のつてで150アンプルも買い込んだ。各種の身体矯正器具も導入した。 こうしてギャラのかなりの部分を費やしても、期待した効果はあがらなかった。 貞子は子どものころから体を動かすのが大好きで、テニス、卓球、水泳、スキーを達者にこなしたが、いまはどれもできなくなってしまった。 かつて銀座のダンス・パーティーで一緒に踊ったときの様子を、丹波はこう描写したものだ。 「生のバンドが耳をつんざくようにして、次々と人気のある曲を演奏した。私たちはカクテルを注文し、ホールのまん中で踊った。健康的でヒップの立派な彼女は、クルクルと鮮やかに踊る。私は何度も何度も手を取った」(『破格の人生 僕は霊界の宣伝使』) そんな貞子の姿も、二度と見られないかもしれなかった。 だが、貞子は見舞客の前では明るくふるまい、「(ポリオになったのが)主人じゃなくて、本当によかった」 と笑った。本心からそう言っていると見舞客の胸を打つ率直さが、貞子の笑顔にはあった。彼女はまもなく33歳になろうとしていた。