附属池田小事件で娘を殺された母の「語り」を、殺人事件の受刑者はどう読んだか? 「殺した側」が反芻している被害者遺族の言葉…
この「語り」を「殺した側」はどう読んだのか
水原はこの被害者遺族の「語り」を読み、どう感じたのだろうか。遺族は、取り返しがつかない喪失やグリーフ(悲嘆)を抱えてしまった後の人生を歩む。歩み方は人それぞれだろうが、水原ら「殺した側」はそういったことを想像することがあるのだろうか。 あるいは、想像させるような矯正プログラムはどれほど用意されているのだろうか。一方で本郷含めて一部の被害者遺族の中では、被害から一定の時間を経過した後、「グリーフケア」を積極的に学ぶ人たちが目につくようになってきた。 しばらくすると、記事を読んだ水原からこんな手紙が届いた。 「68歩」。自分はまず致命傷を負いながら懸命に生きようとする優希ちゃんの姿を思いました。68歩、距離にして30数メートルほどでしょうか。優希ちゃんは「お母さん、助けて」と痛みに耐えながら必死に歩を進めたのだと思います。 どれほど怖かったか、どれほど痛かったか、優希ちゃんの苦しみ、本郷さんの喪失感を思うと言葉もありません。 自分は同じことをしたのです。 見知らぬ人から突然、激しい暴行を受け、命の尽きるまでの間、何を思っていたでしょうか。どれほど怖かったか。どれほど生きたかったか。それらを思いますが、最後にはいつも、こうして自分がのうのうと生きているという事実だけが残るのです。 午前中の作業を終え、食堂で昼食をとっていますと、NHKのニュースが背中に聞こえてきます。 「○○で男性が刺されて死亡した」「○○で女性の遺体が見つかった」 そんなニュースが毎日聞こえてきます。毎日、毎日、人が殺されています。本当に毎日です。それら被害者のそのときの思いや痛みなどを思いますが、反射的に自分のしたことを思います。そしてやはり最後には自分がこうして生きているという事実だけが重く突きつけられるのです。
さまざまな被害者遺族の言葉
某日。水原は拙著の『少年犯罪被害者遺族』(中公新書ラクレ、2006年)、『殺された側の論理』『アフター・ザ・クライム―犯罪被害者遺族が語る「事件後」のリアル』(講談社、2011年)、『「少年A」被害者遺族の慟哭』(小学館新書、2015年)から、自分を「罰している」と受け取った言葉を抜き出して書き送ってきた。 どの本にも、「仕事をすること、生きることがどうでもよくなる。加害者が憎くて殺してやりたいという殺意を押し殺して生活をすることで精一杯になる」という旨の遺族の言葉が出てくるが、その言葉を水原は毎日、反芻しているという。 ご遺族の言葉でとくに考えさせられた箇所についてですが、まず、武るり子さん(『少年犯罪被害者遺族』から)の、「私は一生憎むことを大事にしたい。そういう気持ちを失いたくないし、私は加害者に癒やされたくない」、それから、宮田幸久さん(同書)の「私は彼らの人生に関心などまったくありません。 (中略)更生しないことにもちろん怒ります、更生したとしても新たな怒りが湧く、これが当事者なのですよ」、村井玲子さん(同書)の「あなたは事件後、私たちがどのような生活をしているかわかりますか?これからあなたはどう生きていこうと思いますか?これから息子(拙著では実名。以下同〕や私たちに何をしてくれますか?私たちの生活を想像したことはありますか?私は母親としてあなたたちを一生赦すことはできません。 (中略)私は毎日、息子のことを忘れることはありません。息子と共に日々を送っています。辛い毎日です。でも、生きていかなければならないのです」です。 『アフター・ザ・クライム』からは、渡邉美保さん(被害者)の妹さんの「大勢の人から愛されて育ったから、人を恨んで生きた事がない。正直憎しみ方が分からない」、同書の渡邉保さん(被害者の父親)の(娘が殺害されたことが死につながったと考えられる妻の言葉に対して)「俺を責めるのか、それはないだろう……。そう一瞬思いましたが、それは女房の本心ではなかったと思います。 (中略)薬の影響もあり、周囲にあたるようになっていましたから。 誰かを責めなければ、気持ちが収まらなかったということもあるかもしれません」などのお言葉から事件後の家族間について考えさせられています。 補足をすると、渡邉さんの妻、つまり被害者の渡邉美保さんの母親は事件後、著しく精神を病み、電車にはねられて死亡したのだ。自殺なのか事故なのか、はっきりしたことは判明しなかったが、加害者が母親までも「殺した」ことは間違いないといえるだろう。 同書の上原和男さん(被害者の父親)の「ぼくは妻に怒るんですよ、泣いて娘(被害者・拙著では実名)がふたり帰ってくるんやったらなんぼでも泣いたらって。泣いたって帰ってけえへんやろ、と。それは1時間も2時間も仏壇の前で泣かれてみ、聞いているほうも苦しいんやから」。 『殺された側の論理』に書かれてある青木和代さんの、「どんなにむごい状況で息子(拙著では実名。以下同)が死んでいったのかを調書を読んで知り、写真を見たりして泣きました。 (中略)ショックで(調書を)読むことができませんでしたが、1字見ては泣き、1字見ては泣き、気が狂いそうになりながら読みました」「どんなに生きたかったか、どんなに悔しかったか、生きることができなかった、息子の命の重みを考えてほしいです。一生戻ってこない息子の命の重みを考えてほしいです。(中略)理不尽に命を奪われた息子の無念を真剣に考えてください」です。
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