IWAジャパン・浅野起洲社長が病死 72歳 インディー団体牽引も…2014年から脳梗塞で闘病
究極のインディー団体と呼ばれ「新宿2丁目劇場」を展開し、コアなファンが多かったIWAジャパンプロレス社長の浅野起洲さんが、12日に都内の自宅で病気のため亡くなっていたことが分かった。72歳だった。病名は分かっていない。通夜と葬儀は、近親者のみで15日までに終えたという。 浅野さんは宮城・岩沼市出身で中学卒業後、仙台でプロモーター業を学び、22歳で上京。新宿2丁目を拠点に飲食業や芸能人のコンサートのプロモート業など、手広く事業を手掛けた。1990年からプロレスの興行もプロモートするようになり、当時爆発的な人気を呼んでいた大仁田厚率いるFMWの興行を手掛けるようになった。その後は全日本プロレスの興行もプロモートした。 【写真】「アバター」ヒットの際には、「アサター」に変身した浅野社長(2010年) 94年にはW☆INGに関わっていたプエルトリコのプロモーター、ビクター・キニョネスの勧めでIWAジャパンを旗揚げ。ちょうどインディーブームも重なり、独自のデスマッチ路線が大当たり。2年目の95年には川崎球場に進出し、あらゆる形式を使ったデスマッチ・トーナメントで2万8000人超える大観衆を集めて大きな話題を呼んだ。 外国人もビッグネームが参戦し、テリー・ファンク、カクタス・ジャック(ミック・フォーリー)らWWEの大物が参戦。WWEの日本人スーパースター・TAJIRIもデビューはIWAジャパンだった。 しかし、96年3月に当時参戦していた上田馬之助さんが仙台大会終了後、営業車で帰京中、トラックに追突されて、運転していた社員は即死、上田さんは下半身不随の重傷を負ってしまう。この事故が契機で、団体は傾き始め、浅野さんは自分の飲食店を売り払って、億単位の金を団体に注ぎ込んだ。 何とか団体を再建させるや、97年にはWWEで極東担当を務めていた佐藤昭雄を専務取締役として招へい。その後は〝狂虎〟タイガー・ジェット・シンや〝殺人医師〟スティーブ・ウィリアムスらが参戦。浅野さんの窮地を見かねたザ・グレート・カブキも入団を果たし、98年6月には引退試合も行っている。浅野さんは99年にオーナーから社長に就任した。 2000年代に入るとノアと友好関係を保つようになり、謎の生物ばかりを集めたハル・ミヤコ女史率いる「UMA軍団」が登場。ノアの選手と異次元対決を展開した。また、経営する新宿2丁目での定食屋「花膳」で浅野さんが敵対レスラーに襲われる「新宿2丁目劇場」も長く続き、マニアも多かった。 何とか細々と経営を続けていたものの、2014年に脳梗塞を患い、団体の活動停止を発表。以来、長く闘病生活が続いていた。今年7月末には「花膳」を閉店。10月5日に新宿で久しぶりにトークショーを開催したのが、最後の公の場となった。持ち前の男気で日本マット界にIWAジャパンという「異色の華」を咲かせた功績は大きい。
東スポWEB