ヨーロッパでは「勇敢で優しくオペラにもなった人権派武将」として有名だった「小西行長」【イメチェン!シン・戦国武将像】
歴史上、知られている戦国武将像はイメージが固定されている。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子飼いであった小西行長(こにしゆきなが)のイメージは「商人上がりの臆病な武将」である人も多いはず。しかしながら、実際はそうではなかったというのが、本稿である。 小西行長は、堺の薬種商人・小西隆佐(りゅうさ)の二男に生まれた。幼名・弥九郎。父母がキリシタン信者であったことから、行長も後に洗礼を受けて「オーガスティン」を名乗る。行長には「商人上がりの臆病者」とするイメージがある。このイメージは、多分に不仲であった加藤清正(かとうきよまさ)との比較から生まれたものであり、さらには関ヶ原合戦で敗れた西軍に属し、京都・六条河原で斬首されるという死際も影響しているものと思われる。 しかし、実際の行長は豊臣秀吉も認める「勇敢な武将」であった。21、2歳の頃に秀吉の家臣になり、秀吉の備中・高松城攻めでは水上の軍船から城内に砲撃を加えて武功を上げ、後の秀吉による九州侵攻・島津征伐でも第1線に立って活躍し、薩摩・平佐城攻略にも手柄を立てた。また戦火に荒れた博多の町の再建も経営手腕を発揮して成し遂げた。天正7年には200石だった行長の禄高は16年には24万石となり、肥後の南半分を得た。北半分は加藤清正の領土となった。行長のスピード出世をここに見ることができる。 清正は農民の出身であり、熱心な法華経(日蓮宗)信者であったから、商人出身でキリシタンの行長とウマが合う訳がない。2人は、常に反発し会った。その極地が秀吉による文禄・慶長の役(朝鮮侵略)での手柄争いであった。清正よりも早く釜山城を落とした行長に清正は嫉妬し、2人はその後の戦略を巡って言い争った。その時に清正は商人上がりの行長を馬鹿にする発言をし、行長が脇差しに手を掛けた。諸将に止められて事なきを得たが、以来2人はさらに「犬と猿」になった。 行長は盟友の石田三成(いしだみつなり)と同様に、本来「反戦・和平」派であった。朝鮮では、戦火に遭った町に戦災孤児などが溢れた。行長は、こうした戦災孤児を保護し、孤児のための施設まで造っている。行長は、領地の肥後・宇土でも孤児のために収容施設を造り、ハンセン氏病患者のための施療院を造っている。それは故郷の堺・大坂でも同様であった。施療院は、イエズス会を通じて医療の心得のある者を配置して治療と療養に当たらせた。こうした経験が、朝鮮でも生きた。 当時の朝鮮の国王・宣祖(ソンジョ/せんそ)による『宣祖実録』には「清正よく鉄丸を発す、行長は即ち思慮、人に過ぐ」と記録されている。つまり、清正は単に鉄砲上手だが行長は思慮・遠謀(えんぼう)・知性ともに優れている、というのである。 行長は関ヶ原合戦後にキリシタンだけに自刃(じじん)できず捕縛され、六条河原で斬首された。 その刑死を知った京都や各地域のイエズス会は、幸長の死を悼むミサを捧げた。またその死がローマに伝えられると、すべてのローマ市民に「行長のための祈り」が法王庁から命じられた。 1756年9月(日本では江戸時代・宝暦6年)、歌劇「アウグスチヌス・ツノカミドノ」がオーストリア・ザルツブルグで上演された。後にスペインで発見された歌劇5幕の筋書きなどによれば、これは「日本王アゴスチーノ・ツノカミドノ」という悲劇で、グハスタート学院において耶蘇会において1607年に興行されたとある。 「ツノカミ」とは、摂津守をいい、この時点では小西行長を指す。行長のキリシタンとしての活躍や人権派の武将だったことが、ヨーロッパでは大きく評価されたのだった。これがほとんどの日本の歴史家も知らない行長の事実である。
江宮 隆之