<52年ぶり春・宮崎商>名将列伝/中 浜田登氏 「新名野球」の伝統継承 /宮崎
「アルプスから校歌の大合唱が聞こえてきて。行ってよかった」 宮崎県日向市の県立富島高職員室で同校野球部の浜田登監督(53)は宮崎商監督時代を振り返った。 2008年夏、県大会を制した宮崎商は春夏出場の1969年以来39年ぶりに甲子園の土を踏んだ。後にプロ野球ヤクルトに進んだ赤川克紀投手の好投に打線が応え、初戦は城北(熊本)に7―1と快勝。甲子園での勝利は黄金期を築いた新名〓(にいなあきら)監督(74年死去)の64年以来で、翌日の毎日新聞地域面に「44年ぶり勝利」の字が踊った。次の鹿児島実戦は延長十二回、1―4で惜敗。アルプスから応援団や卒業生らが惜しみない拍手をおくった。 浜田氏は13年に富島に異動。廃部寸前だった野球部を18年センバツに導き、名監督として注目を浴びた。 その浜田氏も宮崎商OB。新名監督の一番弟子で監督を継いだ井上清美氏(71)=在任76~86年=が宮崎商で教えた最後の世代に当たる。新名監督と同じく部員を家に下宿させ面倒をみていた井上氏の家で、浜田少年も3年間を過ごした。 当時「緊張で深い話はできなかった」浜田少年は2001年、県立都農高で同じ教員として井上氏と再会。既に野球指導から退いていた井上氏が使っていた資料室を当時、野球部長だった浜田氏が訪れた。雑談から野球の話になり、「新名野球とは何か繰り返し聞かせてもらった」(浜田氏)。約2年をかけ、伝統が継承された。 03年春、宮崎商に戻った浜田氏に転機が訪れる。野球部副部長就任直後の5月、ある部員を病で亡くした。「最後まであきらめない」とつづった書き初めを部に残した少年。「浜田監督に会いたい」と母に伝え、短い一生を終えた。 一度も会えなかった存在が胸に深く刻まれた。翌年、監督に就任し、5カ条の野球部訓を練り上げる。彼の思いを継ぐ覚悟で「最後まであきらめない」と締めた。 浜田氏が指導にますます情熱を燃やした04年、入部したのが現監督の橋口光朗少年。新たな継承が始まった。