高岡築城許す書状、秀忠から利長へ 市立博物館が確認、12月展示
●「直接伝えていなかった」 高岡市立博物館は21日までに、江戸幕府2代将軍徳川秀忠から、高岡開町の祖である加賀藩2代前田利長に宛てた高岡城の築城を許可する内容の書状を確認した。新発見の書状とみられ、同館の仁ケ竹亮介主幹は、当時は徳川家と豊臣家の権力が併存し、政治的緊張感が高まっていた状況にあったとし、「利長が慎重かつ律義に許可を待っていたことがうかがえる」としている。 書状を意訳すると、「あなた(利長)の居城普請(きょじょうふしん)(高岡城築城)については当然許可されるべきですが、芳春院(ほうしゅんいん)(利長の生母)に伝えてあなたに直接伝えていなかったため、普請を進めていなかったと知りました。早々に普請の開始を命じられて結構です」などと書かれている。5月1日と日付が記され、年は未詳だが高岡城の築城を開始した1609(慶長14)年とみられる。 書状は、同館が古美術商から入手した。高岡開町と築城に関する史料は、今回の書状で54件目となる。 当時は関ケ原の戦いを経て徳川、豊臣の二政権が併存し、両家の間で緊張感が高まっていた。同時期に新しく築城した外様大名が江戸幕府から謹慎処分を受けていた。 江戸幕府初代将軍の家康は、09年4月6日付で利長宛てに普請を許可する旨の書状を送っていた。ただ、豊臣五大老に数えられていた利長は、現役の将軍秀忠からの正式な許可を待って築城を開始したとみられる。 仁ケ竹主幹は、天下の行方が分からない時期に、利長が幕府に対して気を遣っていた可能性がうかがえるとし、「築城の経緯を示す貴重な史料で、高岡の歴史にとって意義のあるものだ」と語った。 書状は12月9日~来年2月12日、同館の常設展で展示される。 ★高岡城 1609(慶長14)年に加賀藩2代前田利長が築城し、9月に入城した。利長死後は3代利常が城の設備を温存し、経済的に高岡を手厚く保護した。現在は国史跡・高岡城跡となっており、築城時の区画や水堀がそのままの形で現存している。