日本全国で8万8000社以上ある神社の”最高位”に位置する「伊勢神宮」の創建の謎とは⁉
みなさんはもう初詣は済ませてますか? 日本中にある神社。大きな社から小さい社まで、その数は8万8000社を超えるという。その神社のなかでも「最高位」に位置するのが伊勢神宮である。ここではその創建の謎に迫る! ■伊勢神宮の創建のヒントは『日本書紀』にしかない 「神宮」は皇大神宮(こうたいじんぐう/内宮)と豊受大神宮(とようけだいじんぐう/外宮)を合わせた正称である。これらを「正宮」と称し、これに次ぐ「別宮」、さらに摂社・末社・所管社がある。合計すると、神宮は125社というおびただしい数の宮社から構成されている。 『古事記』上巻に、天照大御神(あまてらすおおみかみ)は邇邇芸命(ににぎのみこと)に5人の部族の長を添え、さらに大御神を天の石屋から招き出した常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)・手力男神(たぢからのおのかみ)・天石門別神(あまのいわとわけのかみ)を添え、また八尺(やさか)の勾玉(まがたま)・鏡・草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授け、続けて「この鏡を私の御魂として、ただひたすら私自身だと信じて祭事に奉仕しなさい」と仰せられた。そして、思金神に向かって「私の言ったことをしっかりと受け持ち、私の祭事を執り行いなさい」と仰せられた。 そこで邇邇芸命と思金神の二柱の神は「さくくしろ伊須受能宮(いすずのみや)を拝み祭りき。次に、登由宇気神(とようけのかみ)、此は、外宮の度相(わたらひ)に坐す神ぞ」と記す。「さくくしろ」は「口の裂けた鈴(いすず)がついた腕飾り」のことだが、ここでは「いすず」にかかる枕詞といわれる。「伊須受能宮」は、後にいう皇大神宮のことである。次の「登由宇気神」は食物の神で、後にいう豊受⼤神宮の祭神のことである。 「外宮の度相」の「外宮」という名称は平安中期以降に登場することから、この二字は後人の誤りとして「外宮」を最初から除く説もあるが、このような態度は正しい古典の読み方といえないと思う。なお、「度相」は後の伊勢国度会郡(わたらいぐん)、今の伊勢市周辺を指すという。 いずれにせよ『古事記』では神宮の創祀の時期は知り得ない。そこで『日本書紀』をひもといてみよう。 「垂仁天皇紀」25年3月10日の条に、天照大神を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)より離して倭姫命(やまとひめのみこと)にお託(つ)けなさったとある。その後、倭姫命は天照大神の良き鎮座地を求めて、大和国の笠縫邑(かさぬいむら)を出発し、宇陀から近江・美濃を経て、伊勢に到着したとある。 この経路は『日本書紀』よりも『皇大神宮儀式帳』が詳しい。また中世の書である『倭姫命世記(せいき)』も参考になる。 「垂仁天皇紀」はさらに続けて、天照大神が倭姫命に「是の神風の伊勢国は浪の重浪(しきなみ)帰する国なり。傍国(かたくに)の可怜し国なり。是の国に居らむと欲ふ」と誨(おし)えられたとある。そこで「大神の教の随(まにまに)に、其の祠(やしろ)を伊勢国に立つ。因りて斎宮(さいくう)を五十鈴川(いすずがわ)の川上に興(た)つ。是(これ)を磯宮(いそのみや)と謂(い)ふ。則ち天照大神の始めて天より降ります処なり」と記してある。 この一文には分からないところが少なくない。諸説が入り乱れており、確かなことが分からない。 ■伊勢神宮の祭祀には中央と地方の二元構造が見られる 伊勢神宮の成立については歴史学・神話学・建築学・民俗学などの方面からの見解があるが、記紀が伝えるところでは伊勢国度会郡で成立し、なかでも『日本書紀』の記述を信頼し、垂仁朝の年代を3世紀後半から4世紀初頭に比定して、神宮の成立をこの時期とする説がある。 一方、神宮信仰は、もとは太陽を祀る伊勢の地方神だったとの説がある。それが天皇家の東国発展にともない、雄略天皇朝(5世紀後半)の頃から天皇家と関係を持つようになり、本格的に皇室の祖神となった。壬申の乱(672)以降のことで、天武天皇が天照大神の神助(しんじょ)によるものと信じたからだとの説である。 特記しておきたいのは、伊勢の神宮が二元構造をもつことだ。一例を示すと、天皇の御名代として天照大神に仕えた斎王(さいおう)は6月・12月の月次祭(つきなみのまつり)と9月の神嘗祭(かんなめさい)の時だけ祭祀に奉仕する。その際、重大な秘儀が行われる深夜、御正殿の床下に神饌(しんせん/食事)を供進(きょうしん)するのは斎王でなく、大物忌(おおものいみ)と称す童女である。この童女の原像は、土着の神に仕えた伊勢地方の豪族の娘であったと考えられる。 伊勢の神宮の祭祀には、地元の巫女と中央から派遣された巫女という二元構造がみられるのである。 監修・文/三橋健 歴史人2023年10月号『「古代史」研究最前線!』より
歴史人編集部