【「リリアン・ギッシュの肖像」評論】ジャンヌ・モローとの対話から歴史的“女優”の生涯と映画への情熱が伝わってくる
“アメリカ映画のファーストレディ”と呼ばれたリリアン・ギッシュを知る人は、今や映画ファン以外では少ないかもしれないが、彼女のモノクロのポートレート写真ならば一度は目にしたことがあるのではないか。それが約100年前のものであっても彼女の美しさと気品は色褪せることなく、映画スターとしての魅力が写真から伝わってくる。映画の創成期、サイレント映画時代からハリウッドで活躍した歴史的“女優”だ。 本作はそんなギッシュに、フランスを代表する女優ジャンヌ・モローが監督として迫ったドキュメンタリーである。ここでは彼女たちが映画界で活躍した時代を反映し敢えて“女優”と記述させてもらう。“映画”が誕生した年に近い1893年にオハイオ州でギッシュは生まれた。彼女の母方の先祖はなんと第12代アメリカ大統領ザカリー・テイラー(イングランド系アメリカ人)だと言う。 母親が女優だったことから、5歳から妹のドロシー・ギッシュとともに舞台に立ち、友だちのメアリー・ピックフォード(“アメリカの恋人”と親しまれ同時代に活躍した映画スター)をバイオグラフ社に訪ねた際に、D・W・グリフィス(“映画の父”と呼ばれる)を紹介される。サイレント映画を代表するグリフィス監督の大作「國民の創生」や超大作「イントレランス」、「散り行く花」などに出演し、純真可憐な役柄で人気を博していったことが、貴重な写真や映像とともに語られていく。1983年の夏、ニューヨークでモローによるインタビュー時、ギッシュは90歳であるが、そのはつらつとした笑顔と佇まいがモノクロのポートレート写真と重なる。 1930年代以降は舞台出演が主だったが、トーキー映画の時代に入っても、ジョン・ヒューストン監督「許されざる者(1960)」など数多くの作品で活躍し、70年にはアカデミー名誉賞を受賞。87年の「八月の鯨」ではベティ・デイビスと名演を見せている。ギッシュが語る映画の創成期からの話は貴重なものばかりで、映画的な矜持が溢れている。1921年の大作「嵐の孤児」を最後にグリフィス監督の元を離れることになった理由のひとつとして、「注目を集めるために映画会社にスキャンダルを起こされそうになったから」と語り、今も昔も変わらない逸話は興味深い。 世代や活躍した国は違うが、同じ映画女優であるギッシュとモローの対話時の笑顔は、まるで写し鏡のようである。モローは少女のように興味津々で質問し、ギッシュはモローに心を許して答えている。「幸せな人生とは、何を手にしたかではない、何を与えたか」であるとし、「好奇心」を持つことが人生を楽しむ秘訣であると教えてくれる。国内劇場初公開となる本作を含む特集「映画作家 ジャンヌ・モロー」が新宿シネマカリテほかで上映されているので、是非スクリーンで映画女優の肖像を鑑賞して欲しい。 (和田隆)