『屋根裏のラジャー』大人を揺さぶるメッセージ性 母親・安藤サクラのリアリティが鍵に
青々とした空の下。果てしなく広がる真っ白な雪山の中を、キラキラと光る粒をまとったそりに乗って颯爽と滑り抜ける2人の子どもたち。しかし、この光景は大自然の中ではなく、少女アマンダの想像の中に存在する。狭い屋根裏部屋から始まる、現実と想像の境界が交錯する物語が『屋根裏のラジャー』だ。 【写真】オッドアイの猫……ラジャーの前に現れる怪しげなジンザン(CV:山田孝之) 『屋根裏のラジャー』の主人公は、アマンダの創造した“イマジナリ”の少年ラジャー。ラジャーはアマンダにしか見えない想像上の友達で、彼女に忘れられると他の誰からも見えなくなる運命にある。ある日ラジャーは、アマンダが事故にあったことをきっかけに他の忘れられたイマジナリたちが集まる「イマジナリの町」を訪れ、大切な人々の未来を救うための冒険を始めることに……。 本作は、スタジオポノックがA・F・ハロルドの『ぼくが消えないうちに(The Imaginary)』をアニメ化した作品だ。特定の子どもだけが認識できる「見えない存在」を描いた作品は、ファンタジー映画の一般的なテーマでもある。子どもしか入ることのできない異世界での冒険や、大人には認識できない存在とのかかわりを通じて主人公が成長する物語は今や珍しくない。しかし、『屋根裏のラジャー』はこうした従来の作品と大きく異なる独自の特徴を持っている。 それは、イマジナリが必要な子どもたちには何かしらの理由があり、それは本人が“傷ついた”経験に起因していること。ラジャーは「イマジナリの町」でさまざまな個性豊かなイマジナリと出会うが、彼らは辛い現実をともに乗り越える存在として、子どもたちの“友達”として創り出された存在であることが明らかになる。 詳細はぜひ劇場で観届けて欲しいのだが、アマンダも、ラジャーを作り出さなければならなかった理由を胸に秘めていた。本作は、“想像力”のパートの描き方が非常に魅力的な作品なのだが、その裏に隠された真実は何よりも“現実”なのである。 そんな大人にも訴えかける要素が盛り込まれている『屋根裏のラジャー』では、大人を象徴するキャラクターとしてアマンダの母・リジーが登場する。リジーは一人でアマンダを育てる母親として描かれており、彼女の声を演じるのは『怪物』や『ゴジラ-1.0』などの作品でも安定した母親役を演じている安藤サクラ。安藤の演技も相まって、良い意味で、どこにでもいるような母親のリアリティが感じられるリジーだが、もちろん彼女にはイマジナリが見えない。だからこそ、リジーはラジャーを“嘘の存在”だと思っている。 ところが、リジーの心の奥深くにも、子どもの頃に「冷蔵庫」と名付けた特別な友だちの記憶が静かに眠っている。作中では、リジー自身、その存在を忘れ去っているように描かれているが、興味深いことにアマンダの家には「オーブン」と家電の名前を付けられた猫がいる。その様子は、まるでリジーが深く無意識にその記憶を守り続けているかのよう。忘れられたようでいながら、実は心の片隅に残っているもの。この絶妙な感覚の描写こそが、他の「子どもにしか見えないもの」を扱う作品とは一線を画し、大人になった私たちの感受性を優しく揺さぶる。 サンテグジュペリの『星の王子様』には「本当に大切なものは目に見えない」という有名な言葉があるが、『屋根裏のラジャー』のキャラクターが繰り返し伝えているのは「人は見たいものしか見えない」というメッセージだ。私たちに見えている世界は、必ずしも真実とは限らない。それでも、「信じたいものは信じる価値がある」という力強いメッセージが、この作品には込められている。 子どもが大人になるにつれ、忘れていくもの。それはもしかすると大人になった私たちでも、よく目を凝らせば、再び見出すことができるものなのかもしれない。スクリーンの向こうで待っている“私たちのラジャー”を、今こそ迎えに行こうではないか。
すなくじら