「かなしき道をわれもゆくべし」若き副長の最期~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#33
利口だけでは生きていけない
(冬至堅太郎の日記より) 「君は利口だ、しかし利口だけで生きてゆけると思っているらしいところは大馬鹿です」 冬至は、「若く腹が立ち、言いたいことがあるならおいでなさい。君と私二人きりでゆっくり話し合いましょう。しかし私の所へくるからには、口先や小理屈で勝とうと思うと間違いです」と、午前中に手紙を送り、井上からの返事を心待ちにしていた。しかし、夜になっても何も来なかった。厳しい言葉を送りながらも、冬至は「彼も考えているのだろう」と年長者らしい対応をしている。 これが1950年2月15日水曜日のことだ。
最後に交わした言葉は
そして、二月と経たない、1950年4月5日水曜日。石垣島事件7人の死刑執行が決まった。井上が別の棟に移される時に、冬至と交わした言葉が日記に書かれている。 <冬至堅太郎の日記より> 井上乙彦氏のすぐあとに井上勝太郎君。いつも血色が悪かった顔がきょうは一層蒼い。しかし態度は静かだ。 I 長い間お世話になりました。貴方たちの減刑を祈っています。 T 井上さん I えっ T 私は貴方と二人っきりで一度ゆっくり話し合いたかった。とうとう出来なかったのは残念ですが、何れ先か中に行ったら一緒です。ゆっくり話し合いませうな。 I ありがたうでざんす T じゃ、さよなら I お元気で 死刑執行までを過ごす棟に移された井上勝太郎は、遺書を書き始める。その中に冬至の名前が出てくる。 「昨夜、冬至さんが別れる時に言った事等思ひ出す」 2月15日に受け取った手紙の内容を思い返しながら、叱責だけではない、冬至の深い心持ちを感じとったのだろうか。後で、田嶋教誨師から冬至が井上勝太郎の戒名を請求したことを伝えられている。
敗戦の苦悩から教訓を学び取って
27歳で処刑された井上勝太郎は独身で子供はいなかったが、幼い弟を気にかけていた。妹は3日前に面会にきていた。 <「世紀の遺書」より> 「母は戦争で父を失い、又私さえも失うのである。然し堪えてください。これは私が言うのはおかしい事ですが、そして弟を立派に育てて下さい。弟は立派な人間になりませうから。未だ幼くて分からないかも知れませんが、他日この手紙を見せて下さい。敗戦の苦悩をじっと受けてそこから数多くの教訓を学び取って下さい」 勝太郎は死を目前にして、戦死した同期生たちに思いを寄せた。 「戦争中に多くの同期生が死んだ。遠い南海で戦勝を信じつつ、私は敗戦の後に永らへて獄に死なんとするのだ」 愛すべき祖国もたざりし学徒らのかなしき道をわれもゆくべし(井上勝太郎) (エピソード34に続く) *本エピソードは第33話です。