【訃報】日本の危機管理に貢献、松本サリン事件解明の糸口を示した毒性学の権威・杜祖健氏が死去
(ジャーナリスト・吉村剛史) 日本の危機管理に多大な貢献をした化学者が、静かに息を引き取った。 【写真】今年6月、母方の親類筋にあたる台中の名家・霧峰林家の末裔・林怡捷さんと初対面した 杜祖健氏。つい4カ月前はこんなに元気な笑顔を見せていたのだが 父は日本統治下における台湾人初の医学博士で、自身は戦後米国を舞台に毒性学の世界的権威として活躍し、日本のサリン事件解決にも貢献した台湾出身の化学者、杜祖健(アンソニー・トウ)氏が11月2日までに滞在先のハワイ・ホノルルで死去したことが3日、関係者らの証言でわかったのだ。 遺族によると、杜氏は10月26日、静養のため居住地のコロラドから家族が付き添い、ハワイ・ホノルルに移ったばかりだった。 ■ 父は台湾を代表する薬理学者 杜氏は1930年(昭和5年)8月12日、日本統治下の台湾で台湾人として初めて医学博士となった薬理学者・杜聡明氏(1893~1986)の三男として台北市に生まれた。 父の杜聡明氏は、戦後は台湾大学医学部部長、高雄医学院(高雄医学大学の前身)院長などを務めたが、日本統治時代には辛亥革命にも関与していた。1913年、初代中華民国大総統・袁世凱(1859~1916)の独裁に対する不満がたかまった際に、台南出身の同志・翁俊明(1892~1943、歌手・女優・版画家のジュディ・オングの祖父)とともに北京へ赴き、袁世凱邸水源にコレラ菌を投入して袁氏暗殺を試みたが失敗したという経歴を持っている。 杜祖健氏はこの父親の影響を受けていた。台北市樺山小学校を経て、台北一中に進学、同中在籍中に終戦を迎える。戦後は台湾大学理学部に進み、同大を1953年卒業後は渡米。スタンフォード大やエール大などで化学と生化学を研修。ヘビ毒研究を専門として、父親が医学分野で行った毒物研究を、化学者として継承した。
1957年、米国で知り合った日系米国人女性と結婚し、そのまま米国を拠点に生活。ユタ州立大、コロラド州立大で教鞭を執ったが、自然界の毒物に注目した米陸軍の要請を受けて1984年から2007年まで軍の研究などに協力した。 ■ 警察庁科警研にサリン分解物の分析法を教示 杜氏の名前が日本で知られるきっかけは1994年に起きた松本サリン事件だった。 日本の化学専門誌『現代化学』に「猛毒『サリン』とその類似体」と題した論文を寄稿していた杜氏の「土壌中のサリン分解物によるサリンの検出法」に注目した日本の警察庁科学警察研究所(角田紀子所長=当時)から接触を受けた杜氏は、米陸軍からサリン分解物の、土壌の中での毒性や分析法などを解説した資料を入手し、軍の許可を得てこれを科警研に提供。 その際「サリン自体は揮発性が高いのですぐに消えてしまう。だからサリンの地中での代謝物を検査するべきだ」と具体的にアドバイスしたという。 日本の警察はこれを手掛かりに山梨県の旧上九一色村にあったオウム真理教の施設付近の土の中からサリンの分解物を検出することに成功。教団とサリンという点が線で結ばれて一連の事件解決につながった。 杜氏はこの功績によって2009年、旭日中綬章を受章。以後、日本メディアから毒物関連の取材申し込みが多数寄せられるようになった。 1998年にコロラド州立大学を退官、名誉教授となった後は千葉科学大危機管理学部教授や順天堂大客員教授なども務めた。