【漫画家・青木雄二の生き方】世の中、矛盾だらけ。自民党の支配や公務員の腐敗はとんでもないことや…「ナニワ金融道」で何を訴えたかったのか
水商売を通じて学んだ人とカネ
1945年、京都府生まれ。岡山県内の工業高校を卒業後、兵庫県神戸市の鉄道会社に就職した。駅舎設計などの仕事をしたが、大卒出身者との待遇の違いにホトホト嫌気がさし、4年で退社。岡山に戻り、町役場に勤めたが、今度は地方社会特有の保守的な雰囲気が性に合わず、わずか3カ月で退職した。 理不尽なことを言われたりされたりしたら、すぐカッとなって口より手が先に出る性格。神戸の鉄道会社で働いていたときも、月に一度は同僚を殴ったという。 結局、青木さんは大阪で新天地を探すことになり、キャバレーやパチンコ店など30店以上を渡り歩く。ボーイとして働き始めたキャバレーは、在籍ホステス250人の大型店。従業員のための寮があり、2段ベッドの下で寝起きした。店のホステスに手を出すボーイもいたが、発覚すると集団リンチに遭った。 一方、店の上役はいろいろなホステスと関係を結んでいた。借金まみれになった従業員が、ある日、突然、蒸発するなんてことは日常茶飯事だった。 そんな青木さんのことを、作家の宮崎学さん(1945~2022)はこう話していた。 「水商売の仕事を通じて、人間の弱さ、醜さ、悲しさを間近に見たのだろう。極貧時代の経験が血肉になり、青木雄二という漫画家を育てたのではないか」 青木さんは子どもの頃から絵を描くのが好きだった。25歳のとき自伝色の極めて濃い漫画を描いた。大手建設会社を辞めた男がラーメンの屋台を引く物語である。選者の1人だった手塚治虫さん(1928~1989)が「民衆の立場で描き込んでいるムードは貴重」と評し、ビッグコミック新人賞の佳作に入賞したが、出版の話は一つもこなかった。 30歳のとき、一念発起してデザイン会社を立ち上げた。社員15人を抱えたが、経営を軌道に乗せるのは難しい。結局は倒産。たったひとりでデザインの仕事をしながら借金を返済した。 そのころだろうか。青木さんは古本屋でドストエフスキーの「罪と罰」に出会う。何度も読み返した。妄想にとりつかれ、金貸しの老婆を殺してしまった主人公ラスコーリニコフ。その姿がサラ金やカード地獄で一線を踏み越えてしまった人たちと重なって映った。 1989年、講談社のコンテストに応募。「50億円の約束手形」が佳作に入選する。この作品が週刊モーニングの編集者の目に留まり、90年から「ナニワ金融道」の連載が始まったというから、人生、どこで何が起きるか分からない。 カネが人間を支配し、狂わせる現実。「ナニワ金融道」の当初タイトル案は、いみじくも「踏み越えてしまった人々」だったという。 私は江戸時代の浮世草子の作者で大阪生まれの井原西鶴(1642~1693)の世界観を思い起こす。西鶴にかかっては「しょせん、この世はゼニや」。どんな人間もカネの亡者になってしまうのである。 「ナニワ金融道」の単行本は累計1600万部を超えるベストセラーとなり、テレビドラマ化もされた。莫大な印税が入ったことだろう。青木さんは連載が完結するや、「漫画家卒業」を宣言した。 「残りの人生、遊んで暮らす」 そう言っていたが、新聞のコラム執筆やエッセーの出版など、意外に忙しい。愛車はベンツ。青木さん本人は免許証を持っていないので、運転は奥さんが担当した。 それにしても、青木さんは「ナニワ金融道」で何を訴えたかったのか。 「世の中、矛盾だらけ。自民党の支配や公務員の腐敗はとんでもないことや。マルクスの説いた唯物論で行かなあかん、世の中をちゃんと知らんとあかんちゅうことですわ。僕には仕事をホサれる怖さがないから本音が言えるんや」 かつてそう答えている(朝日新聞:1997年3月20日朝刊「ひと」)。