『クレイヴン・ザ・ハンター』に湧いてくる無力感 フィクションを上回った現実の世知辛さ
全編を通じて『クレイヴン・ザ・ハンター』から感じる“気概”
……と、ここまで「『クレイヴン』、粗もあるけど、そんなに悪い映画じゃなかったけどなぁ。何よりアーロン・テイラー=ジョンソンがスゲェ男前だし」と思いを馳せてきたが……どうしても無力感が湧いてきてしまう。というのは、もう皆さんもご存知かもしれないが、この『クレイヴン』を最終作として、ソニーズ・スパイダーマン・ユニバース(SSU)が打ち切りになる可能性が高い、と報じられたことだ。『ヴェノム』(2018年)や『モービウス』(2022年)、『マダム・ウェブ』(2024年)など、スパイダーマンに出てくるキャラを使ってユニバースをやっていこう、という試みだったのだが……興行・批評の両面で失敗が続いていること、会社側の意向で肝心のスパイダーマンが出ないこと、こういった事実を理由に、このユニバースの次はないだろう、というニュースが駆け巡ったのである。もっとも公式には終了も継続も発表されていないのだが……不幸にも“打ち切り説”に強い説得力が生じてしまっている。 本作自体は決して悪い映画とは思わない。しかし、この「大人の事情」が映画体験に水を差してしまっている。単体の作品として光る部分もあり、作る気満々の続編に向けての引きや、他キャラクターとのクロスオーバーに備えた目配せもあったが……それら全てが虚しく見えてしまうのだ。「せめて本作の公開が終了するまでは、公式が大々的にユニバースの打ち切りを否定するなど、サポートしてあげられなかったのか?」とも思うが、これでメシを食っている人たちがいるわけで、仕方がなかったのだろう。それに興行・批評の両面で失敗が続いたのも事実だ。 現実の世知辛さがフィクションを上回ってしまった。その点では非常に不遇な作品だ。とはいえ、全編を通じて「俺らがソニーズ・スパイダーマン・ユニバースのブレイクスルーになってやるぜ!」という気概を感じる。全編通して主演のトム・ハーディの独り忘年会のような映画だった『ヴェノム:ザ・ラストダンス』(2024年)と併せて、仮に本当に打ち切りになったとしても、骨は拾ったぞと言いたい。それに、アメコミ映画とは何が起きるか分からないもの。単純にカッコよかったクレイヴンと、いつかどこかで再会できることを祈るばかりである。はじめまして。そして、さようなら。また会おう、クレイヴン・ザ・ハンター……。
加藤よしき