「人を殺してみたかった」 その心理を考える ノンフィクションライター・藤井誠二
では、どのように向きあえばいいのか
「人を殺してみたかった」という動機については、精神鑑定に基づく、医学的な解明が進んでいる、とは言い難い。 私は、1昨年亡くなった、犯罪心理学者の小田晋氏が書いた、豊川事件についての「精神鑑定書」を読み直している。事件は家裁で保護処分が確定したため、この資料は公開はされていない。私が独自取材で入手したものだ。その鑑定主文には次のように書かれている。少し長いが引用する。 「被疑者は知的には優秀で、犯行当時意識障害、幻覚、妄想、思考の障害、痴呆などを呈する精神病の状態は存在せず、抗拒不能の衝動を生むような精神障害も存在しなかった。被疑者は分裂病質人格傷害または高度の分裂気質者であるとは考えられるが、行為障害、反社会性人格障害には属していない。いわゆる境界例というのとも異なる。 犯行は、殺人および殺人犯になることを体験したいという願望に基づく「殺人のための殺人」あるいは「退屈からの殺人」が動機というほかはない。背後には分裂性性格の病的な合理主義、無感動が、思春期における分裂気質特性の前景化と意識下の衝動の亢進が存在したがそれらは精神分裂病気質によって生み出されたものとは言えない。 従って犯行当時被疑者は精神の障害によって、事理を弁識に従って行為する能力を失っていたわけではなく、これが著しく障害された状態にあったということもできない。」
小田氏の見立ては、「被疑者には、特定の病理を認めることはできず、殺人を体験したいという純粋な願望に基づくものと言わざるを得ない」ということだろう。 この視点から学べることは何だろうか。「人を殺してみたい」という言い方はたしかに「病理」的だし、「サイコパス」であろう。そして、私たちは、「障害」を持ち出してその衝動を、説明されることにより、彼らの理解しがたい動機を「社会と切り離して」理解しようとする。 精神鑑定はもちろん大切である。しかし、同時に、こう考えることもできるだろう。少年や少女たちは、普段は鬼畜で野獣のような人間ではなかった。その、「人を殺してみたかった」という「冷酷な合理性」は、ある意味で、人間がそもそも備えている不条理な部分なのではないか、と。彼らの言葉を病理の範疇に入れて社会から切り離さないこと。彼らの悪びれない姿を、心や感情を制御できない様を、真正面から受け止めること。そこから出発し、我々の社会に何ができるかを考えていく。こうした視点から見えてくるものも、きっとあるはずである。大切なのは、我々の社会が「人間とはいったいどのような生き物なのか」という問いかけを止めないことであろう。 ---------------- 藤井誠二(ふじい せいじ) 1965年愛知県名古屋市生まれ。ノンフィクションライター。高校時代よりさまざまな社会運動にかかわりながら、週刊誌記者等をつとめながら一貫してフリーランスの取材者。『17歳の殺人者』(朝日文庫)、『暴力の学校 倒錯の街』(朝日文庫)、『人を殺してみたかった』(双葉文庫)、『コリアンサッカーブルース』(アートン)、『文庫版・殺された側の論理』(講談社アルファ文庫)、森達也氏との対話『死刑のある国ニッポン』(金曜日)、『アフター・ザ・クライム』(講談社)、大谷昭宏氏と対話『権力にダマされないための事件ニュースの見方』(河出書房新社)、『三つ星人生ホルモン』(双葉社) 等、著書多数。