【山口県】徳山の戦後伝える 岡田利德氏の貴重な資料
山口県周南市の徳機㈱の岡田幹矢会長(82)が父の岡田利德氏が残していた貴重な資料を整理し、グループ会社の毎日興業㈱の本社がある銀座のビルに保管している。岡田利德氏の日本製鐡勤務のころから戦後、周南市の徳山で鉄工業に携わり、現在の徳機グループを築くまでの足跡がわかる会社関係の契約書などだけでなく、徳山商工会議所関係などの資料もあり、岡田会長は「地域社会に早くからこだわってきたことがわかる資料。役立ててほしい」と話している。
利德氏は1909年に大津郡で生まれ、日本製鐡の北九州にあった八幡製鐡所に入り、終戦までの8年間は日本製鐵が出資していた満州の企業で働いた。戦後、引き揚げてきて北九州でスクラップの小売商を始めたが、1953年に周南市の徳山機械㈱を買収して代表取締役になり、同市に拠点を移した。知人もほとんどいない中での出発だった。 73年には県内に映画館を展開する毎日興業㈱を地元資本の企業にするため、その経営にも乗り出すなどした。徳山機械は圧力容器の鏡板の製造で高い技術を持つ企業に発展し、徳山駅の南側にあった工場を新南陽鉄工団地に移転させる計画も進めていたが、利德氏は74年5月に65歳で交通事故のため亡くなった。 その後、同団地に移転して77年に岡田幹矢氏が同社の社長に就任し、86年に徳機㈱に社名を変更した。幹矢氏ら5人の兄弟が社業を受け継いで発展させ、幹矢氏はシティケーブル周南の代表取締役を務め、徳山商工会議所の副会頭にも就任した。 利德氏は「男気」がある「快男児」。商工会議所活動にも力を入れるなど、地域の政治・経済のために活躍し、当時の高村坂彦市長とボートレース場をめぐって時には激論になったこともある。 その一方で自身が関わった問題について几帳面に新聞などのスクラップや記録を保存してきた。これらは風呂敷に包んで自宅に置かれていたが、幹矢氏が整理、分類して年代順に項目ごとにファイリングして棚に並べた。 家族などのアルバムや利德氏が使っていたバッグ、眼鏡、キセル、名刺などの遺品も展示している。徳機グループだけでなく、周南市の戦後のあゆみがわかる貴重な資料。今後の活用が期待されている。