「こわ。どうかしてたんやわ、おれ」“誰かのために”で自分の存在価値を確かめていることに気づかされたお刺身の味【坂口涼太郎エッセイ】
日常にこそきらめきを見出す。俳優・坂口涼太郎さんが、日々のあれこれを綴るエッセイ連載です。今回のエッセイは「ウッ! リコリータ!」です。ラテンのリズムでステップ踏んでるお涼さん、そのわけは? 【写真】日常こそが舞台。自宅で「お涼」ルーティーンを撮り下ろし あけましておめでとうございます。 「年が明けたからといって自分も世界もそう都合よく変わらへんのよなあ、みかんむきむき」というあきらめスピリッツのもと、今年も毎日がスペシャル。目を背けがちなあきらめきれていない自分にまつわる執着や、横目で見て見ぬふりをしていた現実に「えいや!」と真っ向から対峙して、もはやライフワークであるあきらめ活動「らめ活」を変わらず極めて、ここ「ちゃぶおど」でご報告していきたいと思います。 どうかどうか、あなたにとって「ちゃぶおど」が、どこにいてもちゃぶ台の前でお茶を飲んでいるときのご気分になれますように。 そんな、ことよろ気分のお涼は先日、坐禅に行ってきました。 広尾にある香林院というお寺で平日の朝7時から予約不要の坐禅会があるということを友人に教えてもらい、仕事のない日に早起きするなんて1000年に一度あるかないかという希少さを誇るお涼が眠い目をこすりながら行ってきました。 お寺に着けば、和室の四方の壁沿いに座布団が置かれていて、みんなで部屋の真ん中を向くような形で足を組み、間に5分の休憩をはさむ25分間の坐禅を2回実行。目は開けたまま畳を見つめて、息を細く長く吐いて吸うのを1回と数えると、私は25分間で68回呼吸をしていて、おわったあと和尚さんに「どのくらい呼吸の数を少なくできるものですか?」と聞けば、「私は調子が良ければ25回ですかね」とおっしゃっていて、「1分に一呼吸か。当然やけどまだまだ道はソーロングやな」と思った次第です合掌。 坐禅が終わってから、広尾にあるおいしいパン屋さんでモーニングを食べて、いいお天気の中で広尾の公園をお散歩すれば、すれ違ったお犬様をお散歩中の広尾マダムに「あら、かわいいお靴ね」と私の履いているゾウのモチーフがついたお靴をお褒めいただき、なんだかとってもいい気分。この”いい広尾・夢気分”な感じが坐禅の効果なのか、広尾が醸し出す余裕ゆえなのかわからないけど、身も心も清々しく、しかも、これだけ活動してまだ10時。早起きは三文の徳というけれど、一日が長いってこんなにも豊かなのね、といまさら気づくお涼です。 そんな、人生のほとんどをお寝坊夜行性として生きてきたお涼がどうして仕事のない日にわざわざ目覚まし時計をかけて早起きしてまで坐禅を組みに行ったのかというと、あるできごとがきっかけなのです。 あるとき私には短期間でものすごく仲良くなり、親密になった友人がいて、お互いの家を行き来して料理をつくったり、お裾分けしに行ったり、車を借りて一緒に旅をしたりして、よく連絡を取り合っていた。 ある日、私は釣り番組のロケに行くことになり、はじめて船釣りをすることになった。 「釣りとはのんびり待つのが乙なんざましょ? 私、待つのって好きよ」などと、いいオトナ的余裕をぶちかましながら、心の中でワイングラスを片手に持っているような雰囲気で釣り針を優雅に海に投げ込んだ途端、即ヒット。すぐに心のワイングラスを放り投げ、全力でリールを巻いて釣りあげたあと、網で捕獲し、魚を生け簀に入れてから、釣り針に餌をつけてもう一度海に投げ込めば、またもや即ヒット。最初は「いぇーい」的な喜びがあったけど、そのループが休む間もなく無限に繰り返され、次第に真顔でその作業を繰り返すようになり、「待つのって好きよ」的な余裕を味わう時間などほぼ皆無で、気がつけば完全に労働する漁師の雰囲気を醸し出すようになっていた。 結果、なんと、2日間で42匹の魚を釣り上げ、もしかして漁師とは私の天職なのではないかと錯覚するぐらいの釣果を得てしまい、ご近所で露店を出して売り捌こうかと思ったけれど、そんなことをできるわけもなく、一人で食べきるには多すぎるので、スタッフのみなさんや漁師のみなさんと分配し、私は一人で捌いて一人で食べるには1匹で充分だったけれど、せっかくならその友人にお裾分けしようと思い、2匹の魚を持ち帰り、家の台所でYouTubeを見ながら魚を捌いた。一匹はお刺身にして、あらを炊いてあら汁をつくり、炊き立てのごはんと一緒にお塩やお醤油をつけて「ふおー! うおー! どぅおー!」と雄叫びを上げて、ちゃぶ台の前で身をよじりながらもりもりと食べた。もう1匹は捌いたあと、「数日寝かせて熟成するとまた美味しい」ということを漁師さんに教えてもらったので、友人にお裾分けして一緒に食べようと思い、冷蔵庫でキッチンペーパーにくるんで寝かせておいた。 友人にそのことを報告したら、喜んでいることを伝える返信があったので、次はいつ予定が空いているか聞けば、急にレスポンスが止まり、一向に既読されず、突然連絡が取れなくなった。 私は何かあったのではないかと怖くなり、心配になった。というのも、その友人はおっちょこちょいなところがあり、よく怪我をしたり、事故に遭ったりしていたので、余計にそう思ってしまったのである。私と連絡を取り合っているときに事故に遭って入院したり、もしかして最悪のことが起きていたりしたらどうしよう。私はワンルームで魚を捌いたせいで生臭い匂いが一向にとれない狭い部屋の中で、もしも事故に遭っていたら、もしも病気になっていたら、もしも自ら命を絶っていたら、など、もしももしももしもが体の中を充満して息が詰まって身動きが取れなくなり、冷蔵庫の中で熟成していく魚と同じように私もおいしくならない熟成をしていった。 様子を窺いに、その友人の家に行ってみようかと思ったけれど、人の家に突然行くのはちょっとどうなんかということを考え始めたら脳内で映画「シャイニング」のドアの隙間にめりめりと顔をねじ込むジャック・ニコルソンが再生されたので踏みとどまり、人の気持ちとはほんまにわからないものだから、心方面の病になっているのかもしれないし、いまは私とは会いたくないということかもしれないし、ここはそっと待つことがいいのかもしれない、でも心配、でも「シャイニング」の「めりめり」ジャック・ニコルソンにはなりたくない、どうしよう、と思うことを親友に相談すれば「ジャック・ニコルソンになるのはやめとき。ここは待つのが一番」というアドバイスももらったことやし、私は連絡が取れなくなって1週間後に腐敗と熟成のちょうど中間にあたるお刺身をひとりで食べた。 お刺身はとれたてのときとは全然違って、もっとしっとりとしていてやわらかく、中から甘みがじゅわっと溢れだしてくる完熟のフルーツを連想させるような味わいで、とってもおいしかった。 「こんなにおいしくできたのに、食べてほしかったな」 「こんなにおいしいのに食べられへんなんて、ちょっともったいないな」と半ばやさぐれ始めていた私はちゃぶ台を見つめながらしっとり思った。
坂口 涼太郎