「ノー・モア」演説時の横断幕、長崎で発見 ノーベル賞の被団協 全国の被爆者らの名前残る
1982年の第2回国連軍縮特別総会(SSDII)に合わせて渡米した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表団が、現地で核兵器廃絶や平和への思いを寄せ書きした横断幕が6日までに、長崎市内で見つかった。この時に実現した被爆者初の国連演説で発信された「ノー・モア・ヒバクシャ」のフレーズや、長崎原爆で崩れた浦上天主堂の絵と共に、日本各地の被爆者らの名前が残る。今年のノーベル平和賞を受ける被団協が56年の結成以来、被爆者の全国組織として結集し、世界で活動を続けてきた貴重な記録だ。 昨年度から被爆者運動資料などを調査、保存する長崎総合科学大の木永勝也客員研究員(67)らの研究グループが、被団協の中心的組織である長崎原爆被災者協議会(長崎被災協、同市)の倉庫で発見。本紙が関係者への取材を進め、浦上天主堂の絵は先月83歳で死去した長崎の被爆者、小峰秀孝さんが描いたとみられることも分かった。 横断幕は横約190センチ、縦約105センチの布製。被団協の「50年史」によると、米ニューヨークの国連本部で開かれたSSDIIには41人の代表団を派遣した。このうち30人が名前や所属する地方組織、メッセージなどを横断幕に記している。 被団協代表委員としてSSDIIで演説した長崎の被爆者、山口仙二さん(2013年死去)は「平和こそ最大の幸福」とつづった。同じく代表委員で広島被爆の伊東壮さん(00年死去)は、東京の被爆者団体「東友会」が建てた原爆犠牲者慰霊碑の碑文「われら生命もて ここに証す 原爆許すまじ」を引用している。 長崎で被爆した漫画家の西山進さん(22年死去)はイラストで核廃絶の思いを表現。SSDII会期中の82年6月12日、現地で被爆者らが参加したパレードの様子を描いた。他にも秋田や愛知、鹿児島など日本各地で活動する被爆者らの名前があるが、多くは鬼籍に入った。 当時、被団協事務局員として代表団に加わり、横断幕にも言葉を寄せた栗原淑江さん(77)は、寄せ書きを見て「懐かしい名前がいっぱい」と感慨深げ。「同じ被爆者でも県によって個性があった。全国の人が集まって被団協を作り上げたことを象徴する資料」と意義を語る。