突然の北方領土占拠 “千島”がほしいソ連に口実を与えた「ヤルタの密約」
終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、不法占拠されたままとなっている北方領土の問題です。12月15日にはプーチン大統領が来日し、山口県長門市で首脳会談が行われます。ことしは、平和条約締結後に歯舞群島、色丹島の引渡しを決めた1956年の「日ソ共同宣言」からちょうど60年の節目になりますが、平和条約や領土交渉の進展はあるのでしょうか。 あらためて、日ロ間にはどのような領土をめぐるやりとりがあったのか。歴史を振り返ります。
日ソ中立条約を破って始まったソ連の侵攻
第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年8月8日、ソ連は、日ソ中立条約(1941年)を破棄したとして、日本に宣戦布告、満州・朝鮮半島へ侵攻しました。同9日には、40年前の1905(明治38)年ポーツマス条約で日本領となった南樺太へ侵入。18日には千島列島最北でカムチャッカ島に最も近い占守(シュムシュ)島に上陸、松輪(マツア)島、得撫(ウルップ)島を次々制圧し、9月初めまでに、択捉島をはじめとした北方4島すべてを占領します。 不意打ちに見えたソ連の参戦と北方領土侵攻の背景には何があったのでしょうか。
日本は知らなかった「ヤルタ会議」の密約
1945年2月、クリミア半島ヤルタで米国フランクリン・ルーズベルト大統領、英国チャーチル首相、ソ連のスターリン首相による秘密の首脳会談「ヤルタ会議」が持たれました。そこで、決められたのが、南樺太と千島列島のソ連領有権などを条件にした、ドイツ敗戦後2~3カ月以内のソ連軍対日参戦でした。 しかし秘密裏に交わされたヤルタ会議の協定を日本はまったく把握していませんでした。同4月5日、ソ連は日ソ中立条約の破棄を申し出ます。しかし、1941(昭和16)年4月13日に締結したこの条約は「有効期間が5年間」「満了の1年前までにいずれかの国が廃棄を通告しない場合、自動的に次の5年間に延長する」ことを定めていたことから、日本側は条約はまだ有効期間で、期間を延長しないという通達、と認識。同5月に、ドイツが無条件降伏し、完全孤立になった際、ソ連に和平交渉の仲介役を依頼するほど、置かれた状況を理解していませんでした。