火の海となった街を襲う「更なる悲劇」…東京大空襲を生き延びた美術家・篠田桃紅が語る「ヤバすぎる」体験談
「希望どおりにいかないのが現実。だけど思い出は、悲しかったことでも、楽しかったことでも、“ある”ということがとてもいいことだなと思いますね。」自由闊達かつ独創的な筆遣いで植物や天候の移ろい、人の感情を表現し数々の作品を生み出した美術家・篠田桃紅。そんな彼女を育んだ、特異な生い立ちとは。 【漫画】死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由 大正デモクラシーから震災、空襲を経て現代に渡る自身の生涯をエッセイとともに綴る『これでおしまい』(篠田桃紅著)より一部抜粋してお届けする。 『これおしまい』連載第6回 『美術家・篠田桃紅が浴びた「ムゴい言葉」…それを乗り越えた彼女の「自由論」とは 』より続く
惨劇の中で
東京大空襲の下、彼女は両親、6歳下の妹・秀子と会津の山奥に疎開することに決めます。東京に住んでいられなくなったのは、何よりも食べ物がなかったからだったと述懐します。 「どのお店も食べ物を売っていない。お米も何もかも、一般の人は買えなくなった。私は道端を歩いていて、緑の雑草が目に入ると、あれは食べられるかしらと思った心理を、今でも憶えています。みんな雑草を見つければ食べていたから、都会には雑草すらなくなっていたんですよ。 それだけ野菜も何もかもがなかったんです。惨めなものですよ。それで、やっぱり田舎に逃げなきゃということで、会津の山奥に疎開することにしたんです」 ところが、すぐに疎開したくても、今度は列車の切符がなかなか手に入らない。四苦八苦していると、東京大空襲は都市部から郊外に移り、下大井町の実家が半分焼けてしまいます。 「アメリカの軍用機が来て、すぐに防空壕に逃げ込んだけど、家が焼けると防空壕も熱くなってくる。敵機が去ってから、あちこちに転がっていた焼夷弾を座布団で消した。落ちてすぐなら消えるんですよ。 ちょっとでも、火が燃え移ったらもうだめ。そしたら、一つの焼夷弾が防空壕に転がりこんでしまって、なかのものが半分焼けてしまった。妹が茶箱にぎっしり着物を詰めて、それを防空壕に入れてあったのね。 でも、軸物と巻物は少し助かった。桐箱に入れてあった分。桐が非常に火に強いことを目の当たりにした。昔から、大切な経典や掛け物は桐箱、着物は桐箪笥に入れますよね。木のなかで一番強い。離れは全焼してしまったけど、母屋は残ったから本当に助かったの」