父・道長の操り人形ではない…実の子より定子の子を優先しようとした中宮・彰子の"賢后"ぶり
■先に一条天皇のキサキとなった定子が皇子を産んだ日に… 11月7日には定子と彰子の運命が交錯する日となりました。まず、明け方に定子が一条天皇の第一皇子、敦康(あつやす)親王を出産し、天皇は大喜びします。一方で天皇は、ほとんど同時、午前中のうちに彰子を女御(にょうご)にするよう命じ、蔵人頭の藤原行成が、そのことを道長に伝えました。彰子が妻と認められた日と、定子が待望の皇子を産んだ日が重なるとは、事実は小説より奇なりと言いますが、フィクションでも思いつかないようなことですよね。 道長の日記である『御堂関白記(みどうかんぱくき)』によると、この日、道長は彰子に女御宣旨(せんじ)が下ったことを記していますが、敦康親王の誕生についてはまったく触れていません。 で、2人とも天皇の正式なキサキだったとはいえ、宮中で同時に生活していたわけではなく、顔を合わせたことはなかったと思います。定子の後見人である父・道隆が亡くなり、兄の伊周(これちか)が失脚し、政敵がいない状態にあった道長は、強引に彰子を中宮として立后させようと画策します。 しかし、定子が皇后、彰子が中宮となった後もしばらく天皇の愛は定子へと向けられ、定子は第三子も懐妊。まだ12~13歳で、子どもを産める体とも思えない彰子は、大河ドラマで描かれたように、天皇から成人女性として見られていなかったかもしれません。しかし、定子は3人目の子である内親王を産んだとき、後産(胎盤)が下りずに亡くなってしまいます。 【関連記事】「私が死んだら血の涙を流して」寵愛されるも勢力争いに翻弄され25歳で産褥死した皇后・定子の辞世の歌と遺書 ■出産で亡くなった定子の遺した敦康親王の養母となる 彰子は、定子が遺した敦康親王の養母となります。そのころ、彰子の暮らす飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壺)に自分の執務室を置いていた道長にとっても、彰子がその後も皇子を産めない可能性を考えれば、自分にとっては甥に当たる敦康親王を、目の届くところに置いておきたかったのでしょう。 彰子は、定子の忘れ形見である親王たちの身を心配する一条天皇の意を受け、敦康親王に優しく接したと思われます。しかし、しばらく同居はせず、実質的な世話は定子の実妹である御匣殿(みくしげどの)がしていました。その御匣殿も一条天皇の子を宿したまま亡くなってしまいます。彰子と敦康親王が母子として同居を始めたのは、道長の日記によると、寛弘元年(1004)からだと思われます。寛弘3年(1006)には、彰子の御所で童相撲(わらわずまい)を行い、敦康親王が2人の内親王と一緒に見物しています。