「ケーキ、もう半分しかないよ」と「まだ半分あるよ」…その「言い方の違い」が生み出している「意外な効果」
自分の言ったことがうまく伝わらない、何回言ってもわかってもらえない……言葉を使ったコミュニケーションというのは難しいものです。 人と人とが言葉のやりとりをするとき、そこではいったいなにが起きているのか? 日常的なやりとりを題材に、コミュニケーションについて真剣かつ軽やかに考えるエッセイ『言葉の道具箱』が話題になっています。 著者は、大阪大学講師で、「言語哲学」という分野を研究している三木那由他さんです。 たとえば同書で三木さんは、「ケーキ、あと半分あるよ」と「ケーキ、もう半分しかないよ」という「同じ状況を指しているのに、言い方が違う」という事態について、以下のように語っています。 同書より引用します(読みやすさのために一部編集しています)。 〈私のコミュニケーション観の中核には、マーガレット・ギルバートの言う「共同的コミットメント」の構築がある。ふたりのひとが一緒に歩いているとき、ひとりが勝手に先に行ってしまったり、ひとりが勝手に帰宅してしまったりしたら、もうひとりにはそれを非難する権利が生じる。だから逆に言うと、相手から非難されないためには、勝手に先に行ったり勝手に帰宅したりしないという義務を負う必要が生じる。 こんなふうに権利や義務によってひとつの方向性へと複数のひとが結び付けられる状況を、ギルバートは「共同的コミットメント」という言葉で表している。一緒に歩いているふたりは、一体となって歩くことへの共同的コミットメントを形成しているのだ。 私はこの概念を利用して、例えば話し手が「来週末の花火大会に行くつもりだよ」と言って聞き手がその言葉をきちんと受け取ったとき、話し手と聞き手には「『話し手は自分が来週末の花火大会に行くと信じているのだな』と信じてやっていきましょう」という共同的コミットメントが形成されると考えている。 こうした共同的コミットメントがあるにもかかわらず、話し手がそんなことを信じてなさそうな振る舞い(花火大会に行く素振りを見せずに過ごすとか)をしていたら聞き手からは「噓つき」と非難されるし、聞き手がそんなことを信じてなさそうな振る舞い(話し手に「来週末、旅行に行かない?」と誘うとか)をしたら、話し手の言っていることを真面目に聞いていなかったのかと非難されるだろう。 逆に言うと、そうした振る舞いをしないよう、話し手と聞き手は互いに義務を負うことになる。コミュニケーションはこうした権利と義務による話し手と聞き手の結びつきを生み出すものだと、私は考えている。〉 〈試しに「ケーキ、もう半分しかないよ」と「ケーキ、まだ半分あるよ」の違いを考えてみよう。これらの発言が誰かに向けてなされたとき、それによって生じる共同的コミットメントには違いがありそうだ。 「ケーキ、もう半分しかないよ」と誰かに言って、相手が「そうなんだ」と答えたとしてみよう。そこでその相手がすぐさま残りのケーキを勢い込んでがつがつ食べ出したら、「もう半分しかないって言ってるのに!」と責めたくならないだろうか? でも、「ケーキ、まだ半分あるよ」と伝えた場合には、相手が勢いよく食べてくれたら逆に満足するかもしれない。 要するに、どちらも同じ状況でなされる可能性のある発言ではあるのだが、その発言をしたときに生じる権利と義務による結びつきが異なっているように思えるのだ。 「ケーキ、もう半分しかないよ」と言った場合には、「ケーキが半分なくなり半分残っていると話し手は信じていて、しかも残りのケーキをゆっくり味わって食べるべきだとも話し手は信じている」といったことに合わせて今後は振る舞っていきましょうというコミットメントがありそうだ。 でも「ケーキ、まだ半分あるよ」だと「ケーキが半分なくなり半分残っていると話し手は信じていて、しかも残りのケーキを存分に食べてよいとも話し手は信じている」みたいな話になるだろう。〉 自分たちがコミュニケーションをするときに、暗黙のうちにおこなっていることが見事に言葉にされていると思いませんか? 本書を手元に、自分のコミュニケーションを振り返ってみるのも楽しいかもしれません。 * さらに【つづき】「「この食べ物、好き」と言わず「この食べ物、おいしい」と言うとき、私たちが「じつは狙っていること」」(10月20日公開)でも、コミュニケーションについて三木さんが考察します。
群像編集部(雑誌編集部)