JR向洋駅なぜ広島県府中町に?町内に地名はないが… あの車メーカーの創業までさかのぼる
府中町南部の玄関口・JR向洋駅(青崎南)。2030年度の完成を見込む線路の高架化に合わせて姿を消す木造の駅舎を眺めていて、ふと頭をよぎった。「なんで向洋?」。町内に向洋の地名はない。町境をまたいで広島市南区にその名を冠するエリアはあるが…。 【写真と地図】JR向洋駅 「芸州府中荘誌」や「仁保村志」をめくると、行政区を越えて地域の発展に力を注いだ人たちの姿が浮かんできた。 向洋駅は1920(大正9)年、当時の安芸郡府中村に開業。その3年前、マツダの実質的な創業者である松田重次郎が、故郷の仁保村向洋(現南区)付近に松田製作所を設立したのがきっかけだった。 通勤する従業員のため、新駅の開設を望んだのが向洋の人たちだ。浄財を集め、建設作業にも加わった。駅名は「安芸府中駅」に決まり切符まで印刷されていたが、向洋の住民の陳情で覆る。その思い入れたるや、推して知るべしである。 現在、駅前で酒店を営む佐々木耕司さん(52)の祖父甚太郎さんは向洋の出身。駅の建設作業を担った一人で、開業の翌21年に店を構えた。「駅はできても周りは何もなかったはず。地域を発展させたいと、商売を始めたのではないか」と耕司さん。昔はしょうゆや塩、炭など何でも扱っていたという。 その後、マツダの前身である東洋工業の進出により乗降客が飛躍的に増えた。手狭になった駅舎は42(昭和17)年に約200メートル北西の現在地に移転改築。3年後の原爆投下にも耐えた。今は1日当たり約1万7千人と県内有数の利用を誇る。 開業から100年余り。高架化に向けて区画整理が進む駅前のにぎわいに、先人たちの熱い思いが重なった。
中国新聞社