【あなたを忘れない】区長の責務最後まで 届いた感謝に心軽く 福島県相馬市 #知り続ける
東日本大震災発生時、福島県相馬市で最も多くの津波犠牲者を出した磯部地区。第4行政区長だった農業渡部克雄さん=当時(79)=は、地域住民の安否を確認中に津波に巻き込まれ、帰らぬ人となった。悲しみのどん底にいた妻ミヨ子さん(89)に1年後、市外の男性から手紙が届いた。克雄さんのおかげで避難できたと、感謝がつづられていた。「お父さんは最後まで区長の責任を果たしたんだ」。一緒に逃げてくれればよかったと後悔していたが、心が少しだけ軽くなった。 克雄さんは磯部に生まれ、高校卒業後にコメ農家を継いだ。26歳で結婚し3人の子どもに恵まれると、家族のために仕事に精を出した。人一倍の働き者で、海と山に挟まれた土地を開墾し、農地を4倍に増やした。消防団の分団長や土地改良区理事などを務め、住民の信望は厚かった。1996(平成8)年から行政区長を任された。 あの日、真っ先に見回りに出たのは、使命感に突き動かされたからだったのだろう。津波が押し寄せてくるかもしれないと思いながら、自宅にいたミヨ子さんと長男の妻に「様子を見てくる。俺も後から行くから、お前たちは車に乗って先に学校に逃げろ」と叫んだ。ミヨ子さんは家にあったヘルメットとメガホンを手渡し、「寒いから上着を着な」と送り出した。それが最後の会話になった。
磯部地区だけで251人が命を落とした。震災から10日ほど過ぎ、克雄さんに似た遺体が自宅から500メートル離れた場所で見つかった。「別人であって…」。歯の治療跡を調べてもらうと、本人と判明した。無情な現実に、打ちひしがれた。 穏やかだった日常が脳裏に浮かぶ。子どもたちが金婚祝いにプレゼントしてくれた沖縄旅行―。どこまでも広がる透明な海を2人で眺めたのが今となっては最良の思い出だ。「無理やりにでも一緒に逃げるべきだった」と自分を責め続けた。 1年後にミヨ子さんの元に届いた手紙は、南相馬市の男性からだった。「渡部さんに避難を促されたおかげで助かった」としたためられていた。仕事先の磯部で克雄さんに声をかけられ、難を逃れたという。「お父さんのおかげで助かった命があった」。克雄さんはどんな時も他人のために尽くすのをいとわない、勇気ある人だった。 ミヨ子さんが震災当日に着用していた服のポケットに、一つの黒豆が入っていた。津波で流された自宅の庭で、2人で栽培していた。「お父さんの形見だ」
その一粒を震災後に移り住んだ市内塚部の自宅の庭に植え、大切に育てた。収穫して食べられるまでに増えた。毎年、手塩にかけて栽培している。夫を慈しみながら、煮物にして味わう。どんなごちそうよりも、おいしい。 今年もきっと立派に実るはずだ。前向きに生きる希望を、克雄さんが紡いでくれている。