『キングダム』のモデルになった蒙武・王翦・王賁の意外な史実とは? 中華統一に寄与したエリート将軍たち
秦の始皇帝は、中国史初の天下統一をどのように成し遂げたのか。始皇帝の近臣として統一に寄与したエリート将軍家が、王翦(おうせん)や蒙武(もうぶ)をはじめとする王家と蒙家だ。 【写真】映画で「王騎」を演じた筋骨隆々の人気俳優はこちら 映画『キングダム』の中国史監修を務めた学習院大学名誉教授・鶴間和幸さんは、「戦時においては、王翦・王賁(おうほん)父子の密な連携があった」と指摘。『始皇帝の戦争と将軍たち ――秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)から一部抜粋して解説する。 【この記事では、『キングダム』よりも先の統一戦争後半の史実に触れています。ネタバレにご注意ください】 * * * 将軍も、秦王にとっては特に重要な近臣であった。 若い秦王嬴政に仕えた将軍の蒙驁(もうごう)や王齮(おうき)は亡くなった年がしっかりと記録されているが、没年の記録がない将軍がむしろ多い。 戦死や賜死の場合は、とくに没年が記録される。「王齮死」「将軍蒙驁死」というのは戦死であろう。一方で、桓齮(かんき)、麃公(ひょうこう)、羌瘣(きょうかい)、楊端和(ようたんわ)、李信(りしん)のように、いつの間にか消えていく将軍も多い。 人物の死はさまざまな事件と関わりがあり、歴史を紐解くうえで重要な要素である。戦死したのか、病死したのか(始皇帝)、自害したのか、獄死したのか、刑死したのか、死亡年がわからないといっても自然死とは限らない。史上から謎のように消えていくことに、歴史の背景をさぐることもできる。こうした空白の部分に、歴史学者としての関心がそそられる。
有名な将軍家としては蒙家と王家が知られ、秦の中国統一は、両将軍家の活躍によるところが大きかった。 蒙驁・蒙武・蒙恬(もうてん)の蒙家は、三代続いた秦の将軍である。蒙恬は六国最後の斉を滅ぼした功績によって、統一後は内史となった。統一後の始皇三二(前二一五)年、蒙恬は三〇万の兵を率いて北方の匈奴を追い、河南(オルドス)を取り、臨洮から遼東に至る万里の長城を築いた。 一方、王翦・王賁(おうほん)・王離(おうり)三代の将軍についてある者は、「将為ること三世なる者は必ず敗る。必ず敗るは何ぞや。必ず其の殺伐する所多ければ、其の後其の不祥を受けん」といい、王離が名将であることを否定した(王翦列伝)。三代も続けば、敵方を殺戮する数が多くなり、その報いが三代目にかかってくるという奇妙な理屈を述べている。 三世代将軍といっても、三世代が同時に戦場に出ることはなく、せいぜい父子の二世代である。王翦と王賁の父子の連携は、同一の戦場ではなかった。王翦が蒙武と共に楚の戦闘に集中している間に、息子の王賁には遼東に遷った燕王を追わせた。王翦はその前に、荊軻(けいか)による暗殺未遂を起こした燕を攻撃していた。王翦は遼東まで逃亡した燕王を追うには高齢であったために、子の王賁に任せ、自分は対楚戦に集中し、さらに越君を降伏させることもできた。