研究者を苦しめる「不合理な現実」…「論文」ではなく「誰にも読まれない管理書類」ばかり増えるワケ
なぜ組織の上層部ほど無能だらけになるのか、張り紙が増えると事故も増える理由とは、飲み残しを放置する夫は経営が下手……。 【写真】人生で「成功する人」と「失敗する人」の大きな違い 12万部ベストセラーとなっている『世界は経営でできている』では、東京大学史上初の経営学博士が「人生がうまくいかない理由」を、日常・人生にころがる「経営の失敗」に見ていく。 ※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。 合理を追求するはずの科学(自然科学、人文科学、社会科学すべて含む)は、不合理で非科学的な悲喜劇で満ち溢れている。 肝心の政府による科学振興のための政策(科学行政)からして「不合理を追求する」という崇高な使命に忠実に見えるほどだ。科学行政に関わる政治家・官僚は、極めて真面目に、悪意なく、悲喜劇を演じてしまっている。 たとえば、科学行政は科学者に対して科学研究に必要な費用を助成する代わりに、何十枚何百枚という管理書類を要求する。なんとその量たるや論文よりも多い。読者の方の多くもこれにはさすがに驚かれるだろう(なお、この章は比喩として科学における経営の失敗を扱っているだけであり、科学行政の批判を主たる目的としてはいない)。 現実を素直に解釈するならば、どうやら行政が科学者に求めている成果物は研究論文ではなく管理書類の方らしいということになる。
嘔おう吐と (寝不足):目的は研究成果か管理書類か
しかし科学者・学者と言われる人たちは、周知のとおり自己管理能力と引き換えに特殊な研究能力を手に入れている。科学者・学者の中には、脳みそに専門知識を詰め込みすぎて(自戒を込めていえば)一般常識の分の空き容量が残っていないという人も多い。 こうした自己管理能力欠如型の人に管理書類を書かせまくるというのは、魚に対して「空を飛べ」と命令しているようなもので、突然変異的な、すなわちトビウオ的な人でもないと大変な非効率である。だが、ほとんどの研究者は残念ながら非トビウオ的である。 こうした非トビウオ的科学者は、論文となると、大学生が一年間七転八倒しながらようやく書き上げる卒業論文くらいのものはコラム感覚で一日あれば書けてしまう人がほとんどだ。しかし同じ人が、大学生がアルバイト先で数十分もあれば書き上げてしまう業務報告の類となると、額に冷や汗をかきつつ脇汗びっしょりで一週間かけても書き終わらない人がほとんどだろう。 もちろん、こうして苦労して出来上がった管理書類も、管理書類作成に向いていない非トビウオ的な人が嫌々作ったものだから、当然ながら間違いだらけの代物となっている。筆者の体験からしても、管理書類が修正依頼なしで一発受理(アクセプト)されることは、論文が一発受理されるよりも珍しい。 こうして、現代の(日本の)科学者は研究時間のほとんどを不得意な管理書類の山を作るのに費やしているわけである。 この状況が続いていけば、やがて「科学者になれるのは、管理書類の山を作るのは得意だけれども科学知を生み出すのは苦手な人だらけ」という結果を招くだろう。目的と手段は見事なほどに転倒して科学の進歩は止まってしまう。こうした状況に陥ってもなお管理書類生産促進型科学行政人は「管理書類万歳!」と叫ぶだろうか。 また、科学行政は科学者に対して「不確実な革新」と「確実な成果」とを同時に求める。すなわち、競争的資金という名の下で、確実・着実かつイノベーティブ・革新的な成果を出せると見込まれる人にしか研究費を提供しない。要するに当たり馬券だけを購入したいというわけだ。これは文字に書き起こせばすぐに分かる矛盾である。 革新的な研究・イノベーションは、誰も手を付けていない不確実なものだからこそ革新的だと評価される。そして、誰もやったことがないものに確実に成果を出せるはずがない。この説明自体が「書くことがなくて文字数を稼いだか?」と思われるほど自明である。 科学に対するこうした矛盾した要求は次のような事態を招く。 まず、科学者は矛盾した要求に対する防衛策として成果がすでに出たものにしか手を付けなくなる。 たとえば、これまでAという対象に対して適用していたものと同じ理論・実験を、別の対象Bに適用するなどだ。もちろん、研究費の申請書類内で対象Bについて研究をすることがいかに素晴らしいかを語って「世界を変える」と宣言するくらいは当然の修辞術である。 場合によっては科学者たちはすでに成果が出ている研究を論文化する手前でいったん止めておいて、この段階で研究費を申請するようになるだろう。そして、研究費が獲得できた段階で初めて先ほどの研究内容を論文化すれば、確実に成果を生み出すことができる。 もちろん、すでに終わった研究を論文化しただけだから、獲得してきた研究費は余る。そこで、余った研究費で次の研究をしておいて、成果が出たら論文化の手前で止めて……となる。 なお、こうした研究のやり方は研究費の「目的外使用」とされ、罰せられる場合もある。公に罰せられてしまうと、「科学研究を進めていくためだった」という主張は言い訳にしかならないと断罪され職を追われることさえある。 つづく「科学者がついつい陥る「一流国際学術雑誌への掲載」という手段が目的化してしまう罠」では、偏差値至上主義的な大学受験そっくりな、科学者が陥るランキング至上主義の病について掘り下げる。
岩尾 俊兵(慶應義塾大学商学部准教授)