明治維新を牽引した英傑【大久保利通】はなぜ旧武士階級の民衆の心を掴むことができなかったのか⁉
動乱の幕末を制したといっても過言ではない大久保利通は、暗殺という悲惨な最期を遂げてしまうのだが、なぜそのような最期を遂げなければならなかったのか? ■冷たい視線を浴びながら国家のためひた走った英傑 薩摩藩士の大久保利通は同郷の幼馴染・西郷隆盛(さいごうたかもり)との2人3脚で倒幕を実現したが、明治政府の誕生を境に2人は違う道を歩きはじめる。西郷は薩摩藩に戻ったのに対し、大久保は明治政府に活動の場を移し、政府のトップとして近代化政策を断行していく。 西郷が薩摩藩との関係に縛られて苦悩したのに対し、大久保はドライであった。薩摩藩の力をフルに活用することで倒幕を実現したにも拘らず、明治政府が誕生すると、独立性の強かった薩摩藩の抑え込みをはかる。中央集権体制確立のためには避けて通れない道だったが、そんなシビアな政治姿勢ゆえに、藩内からは冷たい視線を浴びせられる。 その総仕上げとして明治4年(1871)に廃藩置県を断行するが、それから間もなく、盟友の西郷に国内を任せて岩倉使節団の副使として外遊に出る。近代化をさらに推し進めるには欧米社会の視察は不可欠だったが、その間、西郷は国内の統治に非常に苦しむ。いつしか、2人の関係にも距離が生まれるが、それが露わとなったのが同6年の征韓論(せいかんろん)をめぐる対立であった。 西郷が大使として朝鮮に派遣されることに断固反対した大久保は、天皇の裁断という形でその阻止に成功する。失望した西郷は大久保と袂(たもと)を分かち、政府を去った。 西郷に代わって政府のトップに立った大久保は外遊の成果を活かして近代化政策を次々と打ち出す一方で、政敵を次々と倒していく。西郷とともに下野し、同7年に佐賀の乱を起こした江藤新平(えとうしんぺい)は極刑に処され、反政府運動への断固たる姿勢を示した。同10年には西郷を奉じて鹿児島県士族が西南戦争を起こすが、半年以上にわたる戦いの末、大久保は西郷を自決に追い込む。 しかし、こうした非情な政治姿勢は強い反発を招く。その結果、西郷の死から1年も経過しない明治11年5月14日に、政府に反発する士族によって大久保は暗殺されるのである。 監修・文/安藤優一郎 歴史人2021年09月号「しくぎりの日本史」より
歴史人編集部