だから「いじめ」はなくならない…この国で「人の命よりその場のノリが重視」される実態
学校とはどのような場所なのか、いじめはなぜ蔓延してしまうのか。学校や社会からいまだ苦しみが消えない理由とは。 【写真】年収300万円未満家庭、3人に1人が「体験ゼロ」の衝撃! いじめ研究の第一人者によるロングセラー『いじめの構造』で平易に分析される、学校でのいじめ問題の本質――。
「よい」は「みんな」のノリにかなっていること
小社会では独特の「よい」と「悪い」が成立している。彼らは、自分たちなりの独自の「よい」「悪い」に、大きな自信と自負を持っている。それは、きわめて首尾一貫したものだ。 この倫理秩序に従えば、「よい」とは、「みんな」のノリにかなっている、と感じられることだ。 いじめは、そのときそのときの「みんな」の気持ちが動いて生じた「よい」ことだ。いじめは、われわれが「いま・ここ」でつながっているかぎり、おおいにやるべき「よい」行為である。いじめで人を死に追い込む者は、「自分たちなり」の秩序に従ったまでのことだ。 大勢への同調は「よい」。ノリがいいことは「よい」。周囲のノリにうまく調子を合わせるのは「よい」。ノリの中心にいる強者(身分が上の者)は「よい」。強者に対してすなおなのは「よい」。 「悪い」とは、規範の準拠点としてのみんなのノリの側から「浮いている」とかムカツクといったふうに位置づけられることだ。自分たちのノリを外(はず)した、あるいは踏みにじったと感じられ、「みんな」の反感と憎しみの対象になるといったことが、「悪い」ことである。 「みんなから浮いて」いる者は「悪い」。「みんな」と同じ感情連鎖にまじわって表情や身振りを生きない者は、「悪い」。「みんなから浮いて」いるにもかかわらず自信を持っている者は、とても「悪い」。弱者(身分が下の者)が身の程知らずにも人並みの自尊感情を持つのは、ものすごく「悪い」。 それに比べれば、「結果として人が死んじゃうぐらいのこと」はそんなに「悪い」ことではない。他人を「自殺に追い込む」ことは、ときに拍手喝采に値する「善行」である。 もっとも「悪い」のは、「いま・ここ」を超えた普遍的な次元への「チクリ」と、個人的な高貴さである。そういう者は徹底的に苦しめなければならない。彼らはそのような「悪い」者を、「いじめ=遊び」の玩具として思う存分痛めつけ、辱め、あらたな全能感ノリを享受しようとする。 もちろん、このような「ノリの国」では、個の尊厳や人権といった普遍的ヒューマニズムは「悪い」ことであり、反感と憎しみの対象になる。彼らにとっては、その場その場で共振する「みんな」の全能感ノリを超えた普遍的な理念に従うことや、生の準拠点を持つことは「悪い」。自分たちの「ノリの国」を汚す普遍的な理念に対して、中学生たちは胃がねじれるような嫌悪と憎悪を感じる。 彼らの小社会では、ノリながらやるのであれば、何でも許されるが、「みんなから浮いて」しまったら、何をやっても許されない。中学生たちはその場その場のみんなのノリをおそれ、かしこみ、うやまい、大騒ぎをしながら生きている。 いじめで人が死んだり自殺したりしたときですら、生徒たちは「かっこいい」と拍手喝采したり、堂々と「遊んだだけよ」と言うことがある。「どうしていじめたのか」と尋ねられて、加害生徒が、「おもしろかったから」とか「遊んでいた」といったふうに答えることもある。このようなとき、彼らは「自分たちなり」の遊びとノリの秩序にしたがって、文字通り「おもしろい」からいじめている。 ここで「遊んだだけ」というときの遊びは、「自分たちなり」のノリの秩序に従いながら、ノリを次々と生み出す。このような秩序状態のもとでは、「みんな」の遊びに逆らうことは強烈なタブーである。また、遊びであればすべてが許される。