やはり寂しい、北の富士さん名物コラムの休載… 「なんで書くんだ、誰から聞いたんだ」あの時の“怒声”が忘れられない、『スクープ』その裏に実は
◇記者コラム・人生流し打ち やはりさみしい。北の富士さんの名物コラム「はやわざ御免」が九州場所も休載だという。筆者にとってはドラ番になる直前わずか6場所の担当だったが、われわれ相撲記者は忘れられぬ恩を受けた。ここに感謝をこめて。 ◆北の富士さん、賜杯を見上げる【写真】 ◇ ◇ 当時九重親方だった北の富士さんが怒声をあげたのは1986年名古屋場所千秋楽の翌朝だった。 「家ちゃん、なんで書くんだ。誰から聞いたんだ。俺はキミのところの評論家なんだぞ、ダメだろう。俺の立場をどう考えてるんだ」 中日スポーツは「北尾改め双羽黒、保志は北勝海」と、それぞれ横綱、大関昇進を決めた2人の新しこ名を1面で報じ、各社があわてて名古屋市内の宿舎に駆けつけていた。 北の富士さんは、北勝海(現八角理事長)に改名した保志の師匠。あまりの剣幕に「家ちゃん」こと先輩記者の家田信男さんは縮み上がり、他紙の記者まで凍り付いた。筆者は北尾の取材で立浪部屋に行っており、この状況はあとで通信社の記者から聞いた。 実は場所前、筆者は特オチをやらかした。カナダ出身の元レスラー琴天山の脱走を3紙に抜かれ、ワイドショーも騒いだ。報知が気づき、書くと知った部屋付き親方がスポニチのデスクにリーク、さらにサンスポに伝わったらしい。 名古屋場所は本社共催でもありトップの総局長じきじきに叱責された。東京在住の家田さんが名古屋入りする前で、すべて責任は筆者にあった。どうやったら防げたかも分からず、この業界でやっていく自信は喪失。場所が終わったら会社をやめて専門学校に通おうと考えた。 そんな場所で北尾と保志は快進撃を続け、同時昇進の可能性が浮上した。当時の春日野理事長(元横綱栃錦)は横綱と大関は本名以外のしこ名をつけるよう厳命しており、注目はそこに集まっていた。名誉回復へは、ダブルでしこ名をすっぱ抜くしか道はない。家田さんも同じ気持ちだった。 ところが場所中「保志は十勝海」という報道が出た。万事休す…。落胆しつつ北の富士さんに確認すると「保志が出身の十勝にこだわってるのは確かだが、おれが認めない。十勝は10勝と読める。横綱になる器が10勝では困る」だった。 北の富士さんは粋だがゲンもかついだ。「勝」を「と」と読ませる力わざで保志を納得させ「北勝海(ほくとうみ)」に決まった。このニュースをとってきたのは家田さんである。 さて、冒頭で書いた九重部屋での続きである。各社の取材が一段落しても北の富士さんの怒りはおさまっておらず、「まだ話がある。こっちに来てくれ」と家田さんを手招きした。 奥まった別室。北の富士さんは「家ちゃん、びっくりしたか」と笑って言ったそうだ。家田さんはこの瞬間、確信した。怒るどころか、情報がわれわれに伝わるのを黙認、いや、そもそもそうなるよう仕組んでいたに違いない、と。 その家田さんは2年前に亡くなったが、生前、年に1度の食事会は毎回この話になった。「キミが双羽黒襲名の特ダネをとってきて、ボクが北勝海。あの時は必死だったよな。それにしても北の富士さんはすべてがかっこよかった。ボクらがへこんでるのを知ってて、最後にああやって花を持たせてくれたんだからさ」。 北の富士さんはそういう人である。 ▼増田護(ますだ・まもる)1957年生まれ。愛知県出身。中日新聞社に入社後は中日スポーツ記者としてプロ野球は中日、広島を担当。そのほか大相撲、アマチュア野球を担当し、五輪は4大会取材。中日スポーツ報道部長、月刊ドラゴンズ編集長を務めた。
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