千葉ドリームスター 土屋来夢選手 高校生に向け講演 700人以上の生徒に向けて語った「失ったことで得られたこと」とは?
ドリームスターへ入団し、再び開いた野球への道
前述の通り野球はできないと思っていた中、一つ大きな転機が訪れた。 今もチームでヘッドコーチを務める父・純一が偶然インターネットでドリームスターのサイトを見つけた。そこで、同年暮れに息子を”無理やり”練習に連れて行った。 当時のドリームスターの選手は、入団を機に野球を始めたメンバーが多く、全国大会に出場するチームではなかった。全国そして世界の舞台を経験した立場から見た純一さんは、帰りの車中で 「野球に復帰するには早かったな。今までやってきた野球とのレベルとは違うよな」 と問いかけたが、自身は全く違う言葉を返した。 「あれを見たらやるしか無いでしょ」 その言葉に心打たれた純一もコーチとして再びユニフォームに袖を通し入団。野球人生の第二章が始まった。
感じた”ギャップ”は唯一無二の”個性”へと進化
まずは左投げや片手での打撃に挑戦するなど、日常生活と同様に新たな動きを取り入れていった。チームも力をつけ、17年以降は全国大会常連チームへと進化していく。 全国から集まるトップレベルの選手を間近で見る機会が増え、まだまだ実力の差があると痛感した。そこで発想を変えていったという。 「最初は過去の自分に近づこうとして、そのギャップにも悩んでいました。でも、続けていくうちに思考が変わっていきました。それは、『同じ障がいを持つ人はいない』ということでした。であれば、自分が出来ることは何か。そこをとことん突き詰めていったんです」 考え抜いた結果、土屋は両投げというプレースタイルを確立。”ギャップ”は”個性”へと姿を変えた。 講演後に行った実演でもこのことに触れ、 「左投げと右投げを使い分ける、グラブトスも上下両方行えることでアウトにできる確率が高まります。さまざまな投げ方を瞬時に判断できることが、唯一無二の武器になったんです」 と説明した。いつしか土屋にとって、日本代表は遠い存在から”目標”へと近づいていった。 その後も全国大会で高いパフォーマンスを見せた土屋についに吉報が届いた。22年の夏、翌年に行われる世界大会の日本代表に選出された旨の通知が届いた。 「ほっとした部分もあったのですが、両親を始めこれまでお世話になった方々が僕以上に喜んでくれた事が何より嬉しかったです」 また、もう一つ自身で誇りに思えることがあった。 「これまでの日本代表メンバーの中でも後天性、かつ利き手を交換しての選出は過去に前例がなかったんです。身体障害者野球の未来に向けて、後天性であっても・利き手交換しても代表になれるという可能性を示せたことはとても自信になりました」