「生き抜くために逃げる」青波 杏×東山彰良『日月潭の朱い花』刊行記念対談
『楊花(ヤンファ)の歌』で第35回小説すばる新人賞を受賞しデビューした青波杏さん。受賞後第1作の舞台は台湾。台北の迪化街で暮らす二人の女性が、一冊の日記を手にするところから物語は始まります。このたび、『日月潭の朱い花』刊行を記念して、東山彰良さんとの対談が実現しました。 【関連書籍】『日月潭の朱い花』
『楊花(ヤンファ)の歌』で第35回小説すばる新人賞を受賞しデビューした青波杏さん。 受賞後第1作の舞台は台湾。台北の迪化街で暮らす二人の女性が、一冊の日記を手にするところから物語は始まります。 このたび、『日月潭の朱い花』刊行を記念して、東山彰良さんとの対談が実現しました。 作品に吹き込まれた亜熱帯の呼吸について、そしてお二人にとっての小説を書くということについて、うかがいました。 構成/佐々木亮 撮影/藤田孝介 撮影協力/THE BASICS FUKUOKA THE BASICS FUKUOKA 〒812-0013 福岡県福岡市博多区博多駅東2-14-1 JR博多駅筑紫口(新幹線口)より徒歩7分。 ――東山さんは『日月潭の朱い花』をどのように読まれましたか? 東山 台湾を舞台にしていて、僕にはとてもなじみのある雰囲気でした。書かれている場所が想像できて、物語に入り込みやすかった。ミステリー仕立てで、盛り上がりもきちんとある。ともすれば作者の伝えたいことがエンターテインメントの中に埋もれてしまいそうになるところを、青波さんのメッセージがぼやけずに伝わってきた。 僕が受け取ったメッセージは、人間ってにっちもさっちもいかなくなったとき、「逃げる」のも一つの抵抗なんだ、逃げても別に悪いことではないんだ、ということ。それが伝わってきて、読み応えのある一作でした。 青波 ありがとうございます。とてもうれしいです。 東山 作中の迪化街の雰囲気とか、まさにあんな感じですよね。古い街並みなんですけど、最近リノベーションが進んで、古い建物をおしゃれにつくり変えたカフェとかホテルとかもいっぱいある。主人公たちがルームシェアしているところとか、台湾の若い世代の文化や生活スタイルってきっとこんな感じなんだろうな、と思いました。 青波 『日月潭の朱い花』は「分かるところから書こうかな」という感じで書きました。ただ、書くときにはそれほど意識していなかったんですが、僕は台湾で暮らしたことはなく、旅人として行き、そこに肉づけをするようにいろいろ調べて書いていったから旅人の視点なんですね。それに気づかされたのは、東山さんの『流(りゅう)』を拝読したからです。描いている時代は違うんですけれど、台湾での暮らしのリアリティーや息遣い、生活感が、住んでいる人の視点から描かれていると感じました。 東山 僕は随分前に台湾から離れてしまったので、知っているのは何十年も前の台湾なんです。『流』を書くとき、「今の時代を背景に書いたらうまく書けないかもしれない。知っている時代じゃないと書けない」と思った。なので、1975年前後を書いている。それだと、僕は直接知っている時代なので書ける、と思ったんですね。 ――ところで、そもそも何で台湾を舞台にしようとしたんですか。 青波 もともと、福建省の厦門(アモイ)を舞台にしようと思ったんです。2019年から20年にかけて厦門の大学で日本語教師として働いていたので。ただ、前作の『楊花の歌』も厦門を舞台に書いたということがあり、舞台を変えてみようと。 それに、僕が厦門で暮らしていたのは大学の寮の中だけだったので、街で生活するのはどういう感じか、ちょっと想像がつかなかったこともありました。現代の物語を書くんだったら、台湾は日本語教師の友達を介して話を聞けるし、舞台としては書きやすいかなあと。 日月潭に関しては、最初にモチーフとして決まっていました。『日月潭の朱い花』は現代パートと、日記のなかの歴史パートがあるんですが、歴史パートの舞台が台中になったのは、物語の創作上の理由が大きかったですね。アクセスの問題から考えました。物語の中で当時の少年少女たちが自力で日月潭に行かなきゃいけないので。 東山 台中は先日、中興大学に招聘されて、初めてしばらく滞在したんですけど、台北とは雰囲気が全然違いますね。びっくりするぐらい落ち着いている。僕が泊まったエリアはすごく静かで、小ぢんまりとしていて過ごしやすかった。また行きたいなと思いました。 青波 確かに台北とまったく違いますよね。台中を舞台にしたのは、アクセスの問題のほかにも、当時、日記の書き手が女学生なので、高等女学校があるぐらいの規模の都市でなければいけないという物語の必然性があり、それでいて台北ほど大都市じゃないほうがいいかな、という感じです。 東山 これからも物語の舞台をアジアに求めていきたいと思っているんですか。 青波 僕自身が歴史研究者ということもあり、近現代史の中でアジアと日本との関わりがどういう形であったかを書きたいというのがあります。今回の作品も日本の植民地支配とその後の歴史を大きなテーマとして書いています。 日本で生活していると、植民地支配の歴史って、ぷっつり断絶しちゃっている感じがあるんですね。特に若い世代に関して言えば。僕が暮らしていた厦門も日本に占領されていたという歴史があり、生活の中でたくさん話を聞いたので、その辺りをしっかり書いていかないと、と思っています。 東山 近現代の社会や歴史を反映した物語というのは、日本だけでなく台湾でも需要があるような気がするんですよね。我々の世代にとっては目新しくないこと、「みんな知っているだろう」と思って書いていることでも、若い世代から「全然知らないことだった」と言われることがある。 僕は『怪物』という小説で……その小説も台湾と日本を行ったり来たりする物語ですが……台湾空軍の「黒蝙蝠中隊(くろこうもりちゅうたい)」という、昔本当にあり、長らく機密だった組織を書きました。台中の大学での講演会で、その話をしたときに、若い人たちはみんな知らないんですよね。2010年ぐらいに機密が解除されて、新聞でも取り上げられ、台湾の新竹というところに黒蝙蝠中隊の文物陳列館もあるんです。それなのに「そんなに知られていないのか」と驚きました。 ――小説を書くに当たって、取材旅行などには行かれるのでしょうか? 青波 子供が生まれた2020年からはコロナの時代だったこともあって、長らく海外旅行には行けなかったんですが、昨年、『日月潭』の初稿がほぼ完成したころに、何とか1週間ほど取材もかねて、家族旅行に行ってきました。 東山 僕は台湾では自分の知っている場所、わざわざ取材に行かずとも、台湾に帰るたびに行くとか、自分なりによく知っている場所しか舞台にしたことがなくて、台北以外はまだ書いたことがないですね。 ――お二人の作品は、食事をする場面も印象的です。やはり自分の好物を書かれているのでしょうか? 青波 そうですね。基本は食べたことがあるものしか書けない。でも、食べたときの「あんな感じでおいしかった」みたいなのを思い出すと、つい書いちゃうんですよね。ストーリーの流れで「ここまで丁寧に書く必要はないだろう」とか思いながら、つい書いちゃう。 東山 台湾では「小籠包はこう食え」みたいなものがあるじゃないですか。 青波 ありますね。 東山 れんげに載せて、皮をちょっと破いて、やけどしないように食う……というのがあるけど、台中で行った小さい小籠包屋さんは、そうやって食っていたら、店のおやじがわざわざ来て「破くな。破いたら価値がないんだ」と。「やけどしてもいいから一口で食え」と言われて、往生したことがあった。 青波 やけどしますね。 東山 「いいんだ、いいんだ、それで」と。 ――台中では皮を破かないで食べるのは一般的な食べ方なんですか? 東山 その店だけ、そのおやじだけじゃないですかね。有名な店ですけど。 青波 そういえば、厦門では、焼き小籠包……生煎包(シェンジェンバオ)の店によく通いました。ちょっと皮が厚めの小籠包を揚げ焼きにしたみたいなやつ。結構な迫力の大きさ。それこそ、店の壁に食べ方が貼ってあって、「口をやけどしないように、まず最初に割ること」「スープをまず飲み、その次に食べる」みたいに。その店がすごく好きでしたね。コロナで閉店してしまいましたが。 東山 この間、台中に泊まったときには、近所のかき氷屋によく通いました。 青波 台湾のかき氷、おいしいですよね。あっという間に溶けていくんですが。 東山 それから、台湾の食べ物と言えば、豆乳と長い揚げパンの朝御飯ですかね。ぶらぶら歩いてたまたま行き当たった路地裏の朝御飯の店が、雰囲気がよくて、スタッフも親切で、味もうまかったら、めちゃくちゃ得した気になるんですよね。「掘り当てたぞ!」みたいな。 でもこの間、台湾に帰ったときに、よさげな店を見つけて、入って食ったら、うまくも何ともないんですよ。揚げパンがぱさぱさして段ボール食っているような。でも不思議なことに朝から日本人が引きも切らずどんどん来る。本当にどのテーブルも日本人ばっかり。「俺、何か間違ってるのかな」と思って何回か行ったけど、何回食ってもうまくない。「おかしいな。何でこんなに日本人が来るんだろう」と思って、妻も連れていったら、妻も「おいしくも何ともない。何でこんなところに日本人が……」って。本当にうまくなかったけど、何回も行きましたね。 青波 僕は割と夜型なので、朝はあんまり街に出てないんですが、お昼とかは厦門の街をさまよって、ちょっと裏通りに入ったところにメニューが全然ないお店があって、そこで食べたものとかはよく覚えていますね。 東山 僕は厦門に行ったことがないんですけど、食べ物は台湾とは違ったりします? 味とか、メニューとか。 青波 かなり似ている感じがします。福建省の漳州や泉州の辺りから台湾にたくさんの人が移住していて、「台湾とは親戚みたいなもんだよ」みたいな話は厦門でもよく聞きますね。 東山 ワンタンとかは台湾にも厦門にも両方あるみたいですけど、台湾にある麺線って厦門にもあるんですか。 青波 厦門でも食べます。ただ、泉州が名物だと聞きました。麺線はよく食べましたね。 東山 おいしいですよね。 ――話題を変えて、影響を受けた作家や好きな作品について、お話しください。 青波 日本の作家だと、鈴木いづみさんって、既に亡くなった人ですけど、平仮名が多い文体に大学のときは影響を受けていました。あと「あたし」という一人称も。 それから、東山さんの小説を拝読したとき、一番に思い出したのはガルシア・マルケスだったんです。語り口や地の文の中に入るユーモアみたいなところが、マルケスを彷彿とさせて、「あれ? もしかしたら」と思って、いろんなインタビューを見ていったら、マルケスをお好きだと書かれていて。 東山 台湾の作家って、僕が知るかぎりではマルケスがすごく好きですね。呉明益さんの小説『歩道橋の魔術師』にも冒頭に引用がある。僕は日本で育ったので、彼らと同じように育ってマルケスを好きになったわけではないんですけど。 台湾という風土は、日本よりもちょっと四次元的なんですよね。身近に廟(びょう)があったり、占いをみんな信じていたり、信心深い人……仏様にお願いをかなえてもらったら、お返しに行かなきゃいけないという人が結構いたり。だから、日本より台湾のほうが、あの世とこの世が近い気がするんです。そういう風土なので、南米のマジックリアリズムと台湾は親和性がいいのかな。 青波 それは本当に『流』を読んだときにもすごく感じました。ありえないようなエピソードも、どこか生活と地続きの感じがする面白さをすごく感じて。 僕もマルケスは、アメリカに留学していた2000年ごろ、『百年の孤独』を読んで、すごく影響を受けました。鼓直(つづみただし)さんの日本語訳もすばらしい。当時は、ちょっと気を抜いて書くと、その翻訳文体のようになってしまうぐらい影響を受けました。 そのほかには、北欧ミステリーが好きでその翻訳とか、『ゲド戦記』のル=グウィンが好きで英文ではなくてやはり翻訳の文体とかに影響を受けている。 僕は小説の文体をあんまり器用に選べなくて、その時々の流行りみたいに読んでいるものの影響を受けやすい気がします。サラ・パレツキーの女性探偵ハードボイルド「ウォーショースキー」シリーズを読んで、三人称っぽい軽快な一人称の語りのリズムが好きになり、『楊花の歌』にはその影響がかなり色濃く残った感じがしています。 東山 僕の場合、一人称は「わたし」とか「僕」とか「俺」とか、一人称で書き進めて違和感があったら三人称にしてみるとか、いろいろ試してます。 青波 一人称で「あたし」か「わたし」かというのも結構大きな問題です。リズムが変わってくる。「あたし」だと何か自由に書けている気がするものが、「わたし」では立ち止まってしまう感覚がある。 『日月潭の朱い花』は、一人称を「わたし」で書いた初めての小説です。『楊花の歌』は「あたし」で書いたので、前と同じ文体を使って書くより、ちょっと変えてみようかな、と。そしたら思ったよりも大変だった。何とかしっくりくるようになったのは、最終稿か、その手前ぐらいになってからです。 東山 文体については書き始める前にいろいろ考えて、何となく見切り発車をして、途中で違和感があったら変えちゃいます。 ところで、青波さんは、新型コロナウィルスのパンデミックやこの数年に起きた戦争が御自分の想像力や創作に何か影響しなかったですか? 僕はコロナ禍に入ってからしばらく、エンターテインメントに興味が持てなかったんですよね。コロナ禍があって、戦争があって、想像力を超える出来事がいっぱい起こって、エンタメを書く気が全く湧かなかった。「現代が舞台のエンタメは、今はちょっと書けないな」と思った。そういうのが何年かあり、雑誌に連載小説を書くとき、「エンタメの世界にきちんと一回戻ってこよう」と考えた。それで、架空の国のファンタジックな物語を書きました。現在新聞で連載中の小説は、舞台を過去の中国にした。その2作を経て、次の作品の舞台はいいかげん現代の日本に戻ってこないといけないと思った。現代の日本で自分が書けるのは、自分の暮らす福岡。なので、福岡を舞台にした作品を今、書いています。 青波 僕の場合、コロナ禍は「日本から中国の職場に戻れない」というところがスタート地点でした。 その間に子供ができることも分かって、生まれてくる子供とどういうふうに付き合っていくかということを一番考えていた気がします。京都の部屋から中国の学生に向けてのオンライン授業も始まってしまい、その準備に追われ、その後もひたすら何かに追われ続けて、ドメスティックというか、内に内に入っていくような感じだったんですよね。一応、大学の授業はあったけれど、社会との接点が限りなく少なかった時期でした。 現実的な話としては、日本で大学の非常勤講師をずっと続けていくのは、もうつらいなというのがあった。それで「なるべく好きなことをやりたい」と思った。 東山 そういう状況でエンタメによりどころを求めるように書いていらっしゃったんですね。僕も20年前、子供がいて、生活が立ち行かなくて、博士論文を書いてたんですけど、学位が取れるめども全然立たず、そういう状況で小説を書くことに逃げ込んだ感じがしています。逃げ込んで、たまたまそれでデビューできたから、ずっと書くことにしがみついてやっている感じですね。 そういう「にっちもさっちもいかない状態」は、書くエネルギーになるんですよね。真面目にやれば、現実逃避も闘いですから。 日本推理作家協会に入るときに挨拶のエッセイを書くんですが、僕は「逃げて、逃げて、逃げて、ここにいる」みたいなエッセイを書いたんですよ。 青波 僕は14歳のときに中学校に全然行ってない時間に小説を書き始めたんです。そこに逃げ込んで、その世界の中に生きていた感じでした。 大学に進み、自分の生活がだんだん充実してくると、その世界にはあまり戻らないようになりました。でも、20代前半のアメリカ留学中、毎晩の課題で人と話す時間が全然ないような孤独の中で、それこそガルシア・マルケスの影響もあって、またちょっとずつ書き始めた。 それからずいぶん時間が空くんですが、3度目がコロナ禍の1年前、中国にいるときでした。日本から逃げて逃げて中国まで渡ったんですが、その中でふっと「自分には書く時間ができたんだ」みたいな。そこで、書くということが、だんだん戻ってきた。その後、そのままコロナの時代に入っていき、本格的に小説に復帰したんです。いまも子供を寝かしつけた後に書いて、子供が起きたら止まって、みたいな感じで書いています。 東山 じゃあ、今回の『日月潭の朱い花』で、さっきちょっと触れたように、逃げてもいいんだと、にっちもさっちもいかないときは逃げることですら抵抗の一つなんだ、というふうに僕は読み取ったんですけど、それは御自分の体験でもあった? 青波 自分の体験ですね。そこにいてうまくいかないとき、そこにいて死んじゃうぐらいだったら、どんどん逃げたほうがいいと思った。 東山 すごく同感。僕も本当にそう思う。 青波 なので、『日月潭の朱い花』で、主人公たちは「もうここにはいられないから」と、それぞれの環境を飛び出す。飛び出した先で、何かしら自分の居場所なりをつくっていく。『楊花の歌』でも、日本から流転して流転して、その中で居場所を見つけ、流れ着いてそこにしかいられない人たちが出会っていく。その感じは、僕にはリアリティーのあるテーマで、やっぱりそのことを書きたくなってしまうんだと思います。 東山 だから、やっぱり「逃げる」ということを、青波さんも僕もそんなにマイナスなイメージとは捉えてないですよね。「逃げる」ということを禁じられたら、多分我々は……。 青波 生きていけなかった。 東山 押し潰されていたと思う。 だから「そうなるよりは逃げたほうがいいんじゃないの」というのを、青波さんは御自分の中にずっと持っていらっしゃる。話をうかがって、それが小説の中にも自然と出てきたんだなと思いました。 「小説すばる」2024年9月号転載
集英社オンライン