「野球人口が減ってもレベルは絶対落ちない」甲子園完全試合の松本稔(現・桐生監督)が選手に「適性の限界」を伝える理由
【「こうあるべき」に抗う教員人生】 松本は今年、64歳になる。定年後の再任用というかたちだが、一年一年が勝負と思って指導にあたっている。でもそこには、単に甲子園を目指すというだけの安直な考えはない。 「勉強もしっかりさせたい。選手たちに言うんです。卒業する時、希望の大学に行ければ、苦しかったけど野球をやっていてよかったと素直に思えるんじゃないのかなって。大学を経てその先でやりたいことをやれるのと、またはこんなはずじゃなかったと後悔するのとでは雲泥の差。 そして、日本という国がよりよくなるためにはスポーツの力は大きな比重を占めていると思っていて、そのためには指導者がもっと勉強してレベルアップしていかなきゃいけない。信頼される指導者が増えれば、政治家にも意見を言えたり、一流企業の社長さんと話ができたりと、広く社会に向けて発信し、貢献できるアスリートが育つと思うんです。そういう人が現れてこそスポーツの価値も高められると思うので、その土台づくりをするために勉強もしっかりやろう。勉強と野球をできるだけ両立させながら、選手たちを次のステップに送ってやりたいと思っています」 「完全試合」というラベルを手にしたあと、その偉大な記録に支配されたくないという思いからか、「こうあるべき」という波に抗い、「体育教師らしくない教師」「高校野球らしくない監督」を目指してきたという。 普通を装い強烈な個性を前面に出さないかわりに、紡がれる言葉には大いなる説得力があった。 (文中敬称略) 終わり 前編<甲子園初の完全試合を生んだ「松本の3センチ」...前橋・松本稔「その瞬間、スピードもコントロールもカーブもすべてよくなった」>を読む 中編<甲子園「完全試合男」松本稔が高校時代から感じていたスパルタ指導の限界「もっと面白く、効率よく」を指導者として実践>を読む 【プロフィール】松本稔 まつもと・みのる 1960年、群馬県伊勢崎市生まれ。1978年、前橋高3年の時に春の第50回選抜高等学校野球大会で比叡山(滋賀)を相手に春夏通じて初めて甲子園で完全試合を達成。卒業後は、筑波大でプレーし、筑波大大学院へ進学。1985年より高校教員となり、野球部を指導。1987年には群馬中央を率いて夏の甲子園に、2002年には母校・前橋をセンバツ大会出場に導いた。2004年、第21回AAA世界野球選手権大会の高校日本代表コーチを務め準優勝。2022年に桐生に赴任し、同年夏より監督。
藤井利香●取材・文 text by Fujii Rika