富士通「イギリス郵便局冤罪事件」の問題点 日本企業が学ぶべき典型的なM&A失敗、海外企業買収で間違わない3つのこと
契約書は芸術作品であり、格闘技でもある
2点目は、契約書の内容だ。富士通がICLを実質子会社化すれば、以降の経営責任は富士通に来る。そして法律上は、買う前の、つまり今回のような問題についても富士通に責任が来る場合が多い。だが、それはあくまで一般的な制度の問題であって、企業買収時の契約というのはもっと複雑である。 仮にDDにおいて、どうしても不明な点があり、買った後で問題になりそうであれば、そのリスクを回避するような契約条件を突きつけることは可能であったはずだ。問題は、単純な売買契約や、賃貸契約、雇用契約などと違って、企業買収の契約というのは全体から細部に至るまでがオーダーメードであり、その細部に大きなリスクもある一方で、買収側に有利な条項を忍ばせることも場合によっては可能である。
つまり、契約書の文言をどのような最終形にするのかということ自体が、シビアな利害の対立になり、知恵の見せ所となる。重要なM&A案件の場合は、そうした契約書の詳細について、投資銀行や顧問弁護士に丸投げすることなく、経営者が自分の目で契約書をしっかり読み込んで、不明点を潰し、可能な限り自社の権益を守るような契約にする努力をしなくてはならない。M&Aにおいて契約書は一種の芸術作品であり、同時に相手のある格闘技でもある。 例えば、東芝が現在のような苦境に立ち至ったのは、元はと言えば原子炉製造ビジネスのウェスティングハウスを買収する際、そして同社を完全子会社化して以降の販売契約において、契約書の精査が不十分であったからだ。とにかく契約に至る交渉とは芸術であると同時に戦いであり、高度なクリエイティビティと胆力が必要で、そのスキルのない経営者は手出しをすべきでない。
現地への〝丸投げ〟が露呈
3番目は、該当国の国情を深く理解するという問題だ。ICL社の場合は、サッチャー政権当時に経済の近代化という国策によって後押しされた経緯、その後、欧州連合(EU)統合の過程で「EUの高度なコンプライアンス」に合わせる必要が出たという経緯など、国と監督官庁の姿勢が変化する中で発生した事件である。そのような国情の変化は、制度の変化、取引条件の変化などを呼び起こす。 往々にして現地のマネジメントはそうした変化に振り回されがちで大局観を失うことがある。これに対して、事実上の親会社として支配しているのであれば、富士通の側が大局的な見地から問題発見に努めることは必要だ。 だが、今回の事件はその正反対であり、事件が明るみに出ても現地任せで終始。その後も放置して、今回、TVドラマという形で「現代という時代とシンクロした形での告発」を突きつけられるという最悪の結果を招いた。 国が違えば言語と文化が異なる。それによって国情にも違いが生じ、制度や価値観も日本の常識が通用しない。だからこそ、第三者的に冷静に見て間違いを指摘することが「外資」の強みとなる。だが、これは日本発の多国籍企業一般に見られることだが、現在はマネジメントの「現地化」が称揚される時代である。 確かに現地のことは現地の事情の分かった現地のマネジメントに任せた方が判断が当たることは多い。また現地人を重用しているという姿勢は好感度につながるかもしれない。だが、そうであっても、国情の変化を大局から見つめ、リスクを回避するためのチェックを怠れば、今回のような事件を起こしてしまう。 最近の日本企業は、国内市場は人口減と経済縮小で先がないなどという理由から、同業である外国企業を買収するという判断を好む。その場合に、同業として高いノウハウがあるなどという自信過剰から、安易に現地任せにした挙げ句に失敗することがある。円安の時代に、ドルベース、ユーロベースの欠損を起こしては、本体の命取りとなり、東芝の場合はほとんど死に体にまで追い込まれた。 丸投げではダメだとか、現地任せではガバナンスが弱いというような認識では足りない。日本との国情の相違、そして国情の変化にまで目を光らせて、現地では見失いがちな大局的な判断ができて、初めて買収企業を含めた多国籍経営は成立する。そのような経営ができないのであれば海外企業のM&Aなど安易に手を出すべきではない。
冷泉彰彦