杉田水脈議員の「人権侵犯」認定から考える:「思いやり」ではなく「システム」として人権を守ること──連載:松岡宗嗣の時事コラム
1948年12月10日に国連で「世界人権宣言」が採択されたことから、この日は「世界人権デー」と位置付けられ、12月4日~10日を「人権週間」としている。ライターの松岡宗嗣が、この機会に改めて「人権」について考える。 【写真つきの記事を読む】
自民党の杉田水脈衆院議員が、2016年にアイヌや在日コリアンの女性を「民族衣装のコスプレおばさん」などと侮辱する記事をブログに投稿した件について、札幌法務局や大阪法務局が「人権侵犯」と認定した。 両法務局は「啓発」の対応を行ったが、杉田氏は「私は差別をしていない」と否定し、むしろ「逆差別、エセ、そしてそれに伴う利権、差別を利用して日本をおとしめる人たちがいる」と言い放っている。さらには、アイヌの特定の個人を名指しで「ごろつき」と侮辱しているという。 岸田文雄首相は「議員の発言に一つ一つコメントすることは控える」と答弁し、自民党から杉田氏に対する処分はない。「人権尊重」は、憲法の基本原則の一つだが、その人権が侵犯された事実を政府が認定しても、杉田氏に対する処分は「何もない」に等しい状況だ。 ■「思いやり」がないから人権を侵害する? 12月4日から10日は「人権週間」だ。1948年12月10日に国連で「世界人権宣言」が採択されたことから、この日は「世界人権デー」と位置付けられている。法務省はこの1週間、「全国的に人権啓発活動を特に強化して行っています」という。 人権啓発において、いまだ「思いやり」や「優しさ」と表現されているのをよく目にする。では、杉田氏が「思いやり」を持てば、アイヌや在日コリアンの人々への人権侵犯は解決するのだろうか。むしろ杉田氏に「優しさ」がないから、人権侵犯をしてしまったのか。そうではないだろう。 そもそも「人権」と「思いやり」を結び付けること自体に大きな問題がある。人権とは、すべての人間が持っている固有の権利であり、その権利には、生存権や自由権、表現の自由、労働権、教育を受ける権利などが含まれている。「差別を受けない」ことも基本的な人権として保障されている。 一人ひとりの人権を守る責任は、まず一義的には国にある。人権を「思いやり」とすることの弊害は多々あるが、その一つは、国が人権を守る責務を放棄し、「個々人が思いやりを持たず、仲良くできないせいだ」と責任を押し付けてしまっている点があるだろう。 さらに、「思いやり」という言葉は、人権を「個人の気持ち」の問題かのようにすり替えてしまっている。これは「差別する意図はなかった」と、意図の問題かのように言い訳がされる背景にも繋がっているだろう。「人権意識」「人権感覚」という言葉が使われることもあるが、文脈によっては適切ではないかもしれない。 また、「思いやり」「優しさ」または「寛容」といった言葉によって、人権を「多数派が少数派に温情的に与えてあげているもの」かのような誤解を生み出してしまっている点も問題だ。 ■仕組みとして人権を守る ではどのように人権を守るのか。それは「気持ち」ではなく「システム」ではないだろうか。人権を「思いやり」という温情に矮小化するのではなく、人権を「仕組み」として守っていく視点が必要だ。 人権を守る責任はまず第一に国にあると述べた。例えば、国は差別をなくすために「差別禁止法」などの法律をつくり、具体的な人権侵害が起きたら、法律を根拠に被害を調査し、事実があれば注意や勧告など、行為への対応を行う。それと同時に、人権侵害を防止するため人々の認識を変えるための教育や啓発を行う。こうした「サイクル」によって、人権が守られていくのではないだろうか。 杉田氏への法務局による「人権侵犯」認定は、まさにこうしたシステムによる対応と言える。 法務省の規定では、被害者が全国の法務局に被害の申告をすると調査が行われ、人権侵犯が認定されると、いくつかの対応──法的なアドバイスなどの「援助」、人権侵害を行った人に対して改善を求める「説示・勧告」、刑事訴訟法に基づく「告発」など──がとられる。今回の杉田氏に対する対応は「啓発」で、人権尊重に対する理解を深めるための働きかけを行うという“軽め”のものだ。 杉田氏は法務局による「啓発」を受けたとされているが、差別を認めず、むしろ開き直っている。さらには「制度がおかしい」「人権には定義がない」「今回の措置は行政処分ではなく、強制力のない任意の措置」などと国の人権救済制度を否定している。この点が明らかにしているのは、国による人権を守るはずのシステムが機能していないということだ。 杉田氏は「人権には定義がない」と主張するが、まず憲法第11条では「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」とし、 人権を「侵すことのできない永久の権利」と明示している。また、第13条では「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」、第14条では「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」など、人権の内容についても示している。 それ以外にも、具体的な権利やどのように守るかは各法律によって示されている。例えば「差別を受けない」という点については、アイヌ施策推進法、ヘイトスピーチ解消法、障害者差別解消法、男女雇用機会均等法、部落差別解消推進法など、それぞれの属性ごとに差別をなくすための法律が作られている。 国によっては、個別の法律ではなく、年齢、出生、人種・民族、宗教・信条、障害、性別、性的指向・性自認といったさまざまな属性をまとめて「包括的差別禁止法」を整備している国もある。しかし、日本にはこうした法律はない。 杉田氏は、法務局による人権侵犯認定を「強制力のない任意措置」というが、これは杉田氏の主張とは別の意味で、制度の問題を明らかにしている。つまり、法務省の人権侵犯認定の規定では強制力のない対応しかできないため、杉田氏の行為は野放しにされてしまうという点だ。 1993年に国連総会で採択された「パリ原則」では、各国に「国内人権機関」の設置を求めている。国内人権機関とは、政府からは独立した人権機関で、人権侵害に対し調査・救済を行うものだ。現在120以上の国で設置されていると言われているが、これも日本にはない。 ■人間の権“理” 「Human Rights(人権)」のRightは「権利」と訳されるが、かつては「権理」という表記も使われていたという。確かに「利」という言葉は、利益・ベネフィットのように、上乗せされるものというイメージを持つ。よくある「権利を求めるなら義務を果たせ」と、権利と義務をトレードオフのように捉える誤解も、こうした言葉のイメージが影響しているのかもしれない。 人権を守ることは、思いやりや優しさといった個人の気持ちではなく、システムによって守られるもの──これは「権利」よりも、「理(ことわり)」という意味での「権理」のほうが適しているのではないかと思う。 杉田氏に「思いやり」がないから人権侵犯をしたわけではないように、差別に「良い人」か「悪い人」かは関係がない。むしろ「思いやりを持った善良な人」こそが人権を侵害してしまうことがある。 一人ひとりが異なる属性や経験、考え方を持つなかで、誰もが“仲良く”できるわけではない。時に対立やトラブルは起きる。たとえ内心でどう思っていたとしても、異なる人々が同じ社会で生活するためには、侵してはならない具体的な権利がある。それをシステムによって守ることが、「人権を守る」ということではないだろうか。 ■人権の価値 人権は国際社会における「普遍的価値」だ。しかし、しばしば「人権は西洋の価値観」であり「日本に押し付けるべきではない」という主張がされる。確かに人権という考え方はヨーロッパで生まれたものと言えるし、それぞれの地域の状況を考慮する必要はある。 しかし、人が自由に考えたり表現できること、安全に働けること、教育を受けられること、裁判を受けられること、差別を受けないことなど、人権が示す具体的な権利は、どんな地域であっても守られるべきものではないだろうか。 また、イスラエルによるパレスチナ占領、ガザへの攻撃に対する欧米社会の反応を見ていると、守られるべき「人権」が普遍的ではない実態、欧米社会のダブルスタンダードも明るみに出ている。 欧米の価値観の押し付けだと否定するのでもなく、かといって無批判に従うのでもなく、いかに人権という考え方が示す具体的な権利や価値を、自分のものとして捉えられるかが重要ではないだろうか。 どんな場所であっても、生存を脅かされることなく安全に暮らせる社会のために、「思いやり」ではなく、「システム」として人権を守る視点を持ちたいと思う。 松岡宗嗣(まつおか そうし) ライター、一般社団法人fair代表理事 1994年、愛知県生まれ。政策や法制度を中心とした性的マイノリティに関する情報を発信する「一般社団法人fair」代表理事。ゲイであることをオープンにしながらライターとして活動。教育機関や企業、自治体等で多様な性のあり方に関する研修・講演なども行っている。単著『あいつゲイだって アウティングはなぜ問題なのか?』(柏書房)、共著『LGBTとハラスメント』(集英社新書)など。 編集・横山芙美(GQ)